過去との決別(十二)
斉藤は、春風に揺れるたんぽぽを眺めながら、ピントの合わない視界の隅で、仲睦まじく手を取り合って歩く、親子の姿を眺めていた。そして、仲良く一台の車に乗って、走り出すのを見届けると、再び店内に、目を戻す。
店内では三人組が、クスクスと笑っていた。その内の一人が、増田に話しかける。
「マスター、あの子、また誘拐されちゃったみたいね」
そんな冗談を、また増田は真に受けた。
「えっ!」
やばいと思って入り口まで行ったが、既に車はない。
斉藤は首を横に振りながら、増田の様子を見ていた。そして、カスタードシューをパクッと食べると、笑顔になった。
ふと見ると、真由美のバックがそこにある。
斉藤は、口元のカスタードクリームを拭きながら、それをひょいと持ち上げる。
そして、カウンターに戻った増田の所へ、歩いて行く。
「おい、これを取りに、来たんじゃないのか?」
斉藤の左手にぶら下げられた真由美のバックを見て、増田は声を上げる。
「あっ!」
「『あ』じゃないだろう」
斉藤は笑いながら、真由美のバックで、増田の頭をコツンとした。増田は苦笑いしながら、それを受け取る。
「どうしましょう」
「どうしましょうって」
そう言いながら斉藤は、右手に持ったままのカスタードシューを、パクっと食べて飲み込んだ。
右手に付いた粉を掃い、歩きながら食べるのは『お行儀が良くない』と思ったのか、今更カウンターの椅子に寄りかかる。
増田はその間も、ずっと斉藤の意見を待っていた。
「俺に持って行けと、言うのか?」
「いいえ……」
「じゃぁ、よろしくなっ」
また俺ですか。と、言いたげな顔を増田がしたが、それには目もくれず、斉藤は席に戻って行く。
斉藤は、三人の主婦が陣取るテーブルの横を通り過ぎたとき、まだコーヒーが残っているのを確認し、まだ当分居そうな雰囲気を感じた。
しかし三人の主婦は、頃合を見て、早く店を出たかった。大きな声で、この状況を分析したかったのだ。
今の男は父親だ。そして『姫』は、マスターと付き合っていたのだろう。きっと結婚に反対された『悲劇のヒロイン』と、『情けない我らがマスター』なのだ。
三人はドラマの修羅場として『もうひと波乱足りなかった』のは、マスターが原因だと分析している。
キャスティングについて、再考する必要があるだろう。
斉藤は自分の席に戻った。
しかし、もう椅子には座らず、お盆に載ったままのケーキを、ひょいと持ち上げると、入り口付近のテーブルに座っていた三人組の所へ持って行く。
「これ、どうぞ」
ヒソヒソ話をしていた三人組みは、斉藤から、突然声をかけられて驚いた。
「あら、よろしいのですか?」
「ええ、怖い人に『誘拐』されてしまったので」
「怖かったですよねぇ」
「ねー」
三人組は、顔を揃えて頷きあった。そして、ケーキを受け取る。
このケーキを食べたら、店を出よう。
三人のアイコンタクトは、そう言っていた。
嬉しそうにケーキを受け取る様子を見て、斉藤はピアノの方に向かった。ケーキを摘みながら三人組は、トイレにでも行くのかと思った。いや、正確には気にもしていない。
カウンターにいた増田は、真由美のバックをいつ届けるか悩んでいた。真由美の家に行くなんて最低最悪だ。気持ちが沈んでいる。
ところがその気持ちに、強烈な光が射す。
斉藤の姿が見えなくなり、足音だけが聞こえていた。そしてその足音は、トイレの前を通り過ぎ、ピアノの前まで到達した。
増田は緊張した。
引き続き聞こえてきたのは、ピアノの蓋を開ける音と、椅子の高さを調整する音だったからだ。増田は、次に鳴り響くであろう音に、期待する。
斉藤はおもむろにポーズを取ると、大音量で弾き始める。
その瞬間、三人組の内一人はコーヒーを気管に詰まらせ、一人はチョコレートが鼻の中で、絶妙な塩加減を得ていた。
カウンターでは増田が、コーヒーをシンクに飲ませている。
斉藤が上半身を揺らし、手を優雅に交差させながら弾いていたのは、名曲『猫踏んじゃった』だった。




