過去との決別(十)
主婦三人は、オージービーフの広告を広げたまま、情報分析をしている。
どうやらあの姫と母親は、プロのピアニストらしいこと。
そして意外なことに、我らがマスターも、売れないピアニストらしいこと。きっと生活に困って、喫茶店のマスターをしているのだろう。
可哀そうに。姫みたいに、カウンターにCDでも並べれば、買ってあげなくもない。丁度『鍋敷き』、買おうかと思っていた所だし。と、噂する。
そしてあの男は、マスターのピアノの先生だ。そしてそして、あの母親の『元恋人』に違いない。
もしかしたら、別れた『元亭主』かもしれないし、娘は健気にも、その父親に、会いに来たのかもしれないと。
そう言われて見れば、どことなく似ている。ちょっとカッコイイ所とか、姫も整ったお顔。そうそう、態度がデカイ所とか、もぅ、お父さんそっくり!
そんなヒソヒソ話をしながら、ここは『再び母親の登場』に期待を込めている。
増田は、そんなことを話している主婦の隣を通り過ぎ、斉藤の席に向って歩く。そこでお盆に載せたケーキを、真由美の方に見せると質問する。
「どれにしますか?」
「無粋な奴だな。全部置いて行け」
図々しくて野太い声がしたので、主婦三人が振り返った。目を輝かせて元に戻る。
真由美は答えようとして、息を吸った所だった。まだ何も言っていない。増田は斉藤の方を向いて、驚いた顔をする。
「俺も食うんだよ」
斉藤が自分を指差して答えた。
増田は納得して、お盆をテーブルに置こうとする。すると、斉藤の手が伸びてきて、ショートケーキをさっさと掴んで引き寄せた。
「レディーファーストではないのですか?」
増田がチクッと斉藤に言った。斉藤はフォークでイチゴを突き刺すと、平然と答える。
「俺は女より、ピアノを愛した男なのさ」
そのままパクッとイチゴを食べた。そして目で、お盆を真由美の前に置く様に指示する。
残りのケーキが真由美の前に置かれ、真由美は会釈する。
「では、ごゆっくり」
増田は真由美の前に『五個のケーキ』を置いてカウンターに戻った。真由美は目をキラキラさせながら、どのケーキから食べようか迷う。少し考えて、モンブランにフォークを突き立てた。
そして、斉藤に聞く。
「マスターもコンサート開くんですか? 全然知らなかったです」
斉藤は、ショートケーキのあった場所に残るクリームを、名残惜しそうに集めながら答える。
「そうか」
それが、何について納得した答えなのか、真由美には判らない。真由美が小首を傾けているのを見た斉藤は、ケーキの皿をテーブルに置きながら、言葉を続ける。
「あいつは、日本じゃ演奏しないんだ」
「どうしてですか?」
どうしてと言われて、答えに困った。
斉藤は真由美の顔を見て、本当に知らなさそうな顔だと思った。年月が経つのは早いものだ。妙に関心する。もう、あんなことがあったのは、遠い昔なのか。
「俺の弟子ということで、世間から冷たくされた時期があってね」
言葉を選んで、言ったつもりだった。
「そうなんですか。でも、かなり昔のことなんですよね? もうよろしいのではないですか?」
斉藤は、もう質問されないと思っていたので、カスタードシュークリームに狙いを定めていた。
しかし、意外な質問返しが来て戸惑う。真由美の口から、そんな言葉が出てくるとは、思えなかったのだ。
斉藤はもう一度、言葉を慎重に選んで、真由美の質問に答える。
「いや、歴史を変えることは出来ない。それが自分に有利であっても、不利であっても、自分がしたことでも、巻き込まれたことでもね。許してくれることと、忘れることは違うんだ」
増田がウィーン修行の集大成として、日本でコンサートを開こうとした時、数々のホールに圧力を掛けたのは響子だった。
しかし当時、響子にそこまでの力はなかった。本当に恐れられたのは、響子の後ろにチラチラ見えていた宮本派の力なのだ。
斉藤も増田も、宮本派を破門された者達なのだ。
結局増田はその時、失意の内に、日本を後にした。




