過去との決別(九)
真由美が、斉藤にお辞儀をしてから席に座るのを見て、増田は口をへの字に曲げると、紅茶の準備を始めた。
たんぽぽをぼんやりと眺めながら、三本足の椅子を揺らしていた斉藤が、真由美に気が付く。
「おや、こんにちは」
「お邪魔します」
真由美はにっこり笑って、椅子に座る。
店内にはまだ、あまり客がいない。入り口付近の三人組みが、ヒソヒソと話しながら、熱い視線を送っている位だ。
その三人組みは、さっき斉藤に呼び出されたマスターが、直立不動で真由美のことを、何か言われているのを聞いていたのだ。
斉藤のことは誰だか知らないが、真由美の知人で、マスターより偉い人。というのは直ぐに判った。もしかして、真由美の父親かもしれない。なんて、ヒソヒソ話をしていたのだ。
そこへ、拉致された『姫』が現れたのだ。
こんな偶然はあるだろうか。そろそろスーパーのタイムセールが始まる時間だが、席を立とうとする者はいない。
三人組は息を潜めて、斉藤が発する第一声に耳を傾ける。
「拉致されたんだって?」
斉藤はクックッと笑いながら真由美に聞いた。真由美は恥かしそうに頷く。
「そうなんですよ。母は強引で」
その情報は知っている。と、三人組は思った。真由美は入り口で『お母さま』と叫んでいたからだ。
斉藤は、椅子を後ろに傾けて笑う。
「あはは。響子ちゃん、気が強いからなぁ」
その一言で、真由美は母があんなに怒っていた理由が判った。
母と斉藤は、知り合いだったのだ。もしかして、恋人同士だったのだろうか。それを確認したい気持ちもあったが、真由美はカウンターの方を振り向く。また昔のことを聞いて、増田がお盆を落としても困る。真由美は斉藤の方を見た。
ここは、知らん振りを決め込む。
「もう、私を、家から一歩も、出してくれませんでした」
「うはっ。それは凄い剣幕だな。災難だったね」
斉藤はまた後ろにそっくり返って笑った。そして手を伸ばしてコーヒーカップを取ったが、中身はなかった。
「お待たせしました」
増田がコーヒーと紅茶を持ってやってきた。テーブルに置いて、カウンターに戻ろうとする。
「響子ちゃん、そんなにカンカンだったの?」
斉藤が増田に聞いた。増田は振り返って、真由美の方をちらっと見て答える。
「ええ。かなり、お怒りでした。演奏を途中で打ち切るくらいで」
その一言に斉藤の目が光った。
演奏を途中で止めさせられるなんて、ピアニストには、絶対、許せない行為なのだ。
「なんだ、お前、そんなこと許したのか! だらしない奴だ。一言『バシッ』と、言ってやれば良かったのに」
「いえいえ、とんでもない」
増田は慌てて手を振る。
「なんだ、お前なら言えただろう?」
斉藤は笑っていた。
増田は、もっと激しい叱責を覚悟していたが、斉藤はもうピアニストではなかったのだ。そんな所を残念に思いながら、お盆を片手で持って頭を掻いた。
「申し訳ありません。新田先生は、昔からどうも苦手でして」
「あはは。そんなチョビヒゲなんか付けてたら、お前だと判らんかもな」
斉藤は増田の方を指差して笑った。
真由美も、あまり似合わないチョビヒゲだと思っていた。最近は見慣れていたが。
「そうだ、ケーキ持ってきましょう」
増田は誤魔化すように、その場を去る。斉藤はくすっと笑いながら増田の背中を見送った。そして真由美の方を向いて、増田を指差しながら言う。
「奴も、プロのピアニストなんだ。知ってた?」
真由美は、何のケーキが来るのだろうとワクワクしていたが、いきなりの質問に目を丸くし、首を横に振った。
斉藤はそれを見て、大笑いする。
「あはは! そうか! 知らんか!」
斉藤も目を丸くして、真由美を見た。
斉藤は右手を口の所に持って行くと、メガホンのように添える。
「おい雄大! おまえ、もっと頑張らないとダメだ!」
斉藤は増田に向かって叫ぶ。
カウンターの中で、冷蔵庫からケーキをチョイスしていた増田は、手を止めると振り返り、口を尖がらせて、頷いた。




