過去との決別(八)
桜の木に、薄っすらと春の気配が感じられる。
あと数日で開花宣言、そしてそれから一週間もすれば満開だ。増田は、春が来るのが楽しみだった。昔は色々なことがあったけれど、今は割と好きだ。
今朝、Slowtimeにある花壇の片隅に、植えた覚えのないたんぽぽが、春の風に揺られているのに気が付いた。
増田はそれを、そのままにしておいた。
午後になって、一台のタクシーがSlowtimeに横付けされた。すると、窓際の席に陣取る主婦三人組みが、バーゲンの話を止めて、窓の外を指差す。
一万円札でお釣りを貰う姿が、カウンターの増田から見えた。タクシーが走り去り、店に飛び込んできたのは、真由美だ。
「いらっしゃーい」
「こんにちはー」
笑いながら二人は挨拶をした。あの出来事は、笑って誤魔化すしかないだろう。
「先日は、どうもすいませんでした」
真由美はペコリと頭を下げた。真由美は、もっと早く詫びに来たかった。しかし鬼が、いや、母がなかなか居なくならなかったのだ。
「やっぱり、お母さんに怒られたでしょう?」
増田は苦笑いしながら、深々と頭を下げる真由美に聞く。
最初に来たとき、増田は真由美に念を押したし、真由美もそれに対して『問題ない』と明確に答えたはずだった。増田には信じられなかったが、その言葉を信じるしかない。しかし、現実はこれだ。
「いいんですよ、ほっとけば」
頭を上げた真由美が笑って答えた。
真由美の笑顔は可愛らしかったが、増田は困った。
きっと今日も、こっそり来たに違いない。増田は再び響子が来たことを思い浮かべると、身の毛がよだつ覚えがした。そして、恐る恐る店の奥を横目で見る。
「また怒鳴り込まれるのは、勘弁して頂きたいですね」
増田が、目を真由美に戻して言った。そして、先日置いてけぼりになった真由美のバックを取りに、カウンターの奥へ行くと、直ぐに戻ってくる。
真由美にはバックを渡して、直ぐに帰って欲しかった。いつ響子が来るか判らない。
「これですよね」
「ありがとうございます」
真由美はバックを受け取ると、直ぐに歩き始める。
増田はホッとした。
「お母さまも演奏してみれば良いんですよ」
バックを受け取りながら真由美が言った。増田はその姿を想像してぞっとする。あり得ない話だった。
「いや、それはお断りします。何かあったらどうしましょう」
気弱な増田が答えるのを、真由美は振り返りながら聞く。
「やっぱり?」
真由美は、響子をここに連れて来たいのだろうか。
増田は真由美の後姿を、心配そうに眺めたが、声はかけられない。もう真由美は、増田の声が届かない所にいた。
店の奥に斉藤がいて、真由美はそこへ、歩いていたのだ。




