過去との決別(七)
バタンと扉が閉まる音がして、真由美は力なくソファーに寝転んだ。やはり母は偉大すぎる。目標にするにも、余りにも大きな星だ。
真由美はソファーの上で、だらしなく寝転びながら、これからどうやって母を越えていくか、考えていた。
いや、越えていくなんておぞましい。せめて、並び称されるくらいで。それも恐れ多い。せめて、自分のピアノに、ケチを付けられない程度に。
「それが難しいのよ」
真由美は溜息を吐いて、天井を見る。そのまま真由美は、父の帰りを待っていた。
いつも忙しくて、帰りが遅い。昔からそうだった。
母がコンサートツアーに行ってしまうと、広い家は『ガラーン』としていて、暗くて不気味だ。
ピアノで葬送行進曲を弾けば、リビングから足音が聞こえてきてもおかしくない。そんなことを思い出しながら、真由美はソファーで居眠りをしていた。
そこに物音がして、真由美は目を覚ます。
ダブルロックの鍵を、片方を開錠してドアを引き、もう片方を施錠してドアを引く、困惑しながら開ける音だ。
真由美は飛び起きて、玄関に走った。
「たーだいまっと!」
博は玄関の扉を、やっと開けた。
「お帰りなさーい」
ダブルロックの鍵を開けたり閉めたりして、呼鈴を鳴らすのは珍しいことではない。しかし、玄関まで迎えに来てくれた真由美を見て、新田の顔に笑顔が浮かんだ。
こんなことは、本当に久し振りだ。
博は嬉しくなって鞄を下に置くと、両手を広げて娘を抱きしめると、頭を優しく撫でた。
真由美は、父親にしか見せない『人懐っこい笑顔』で一歩後ろに下がると、下に置かれた鞄を持ち上げる。
昔は、良く玄関まで迎えに来てくれて、鞄を書斎まで持って行ってくれたものだ。博はちょっと大きくなっただけで、その時と変わらない娘を、眺めていた。
しかし、こういう時は『どういう時』なのか、親の博にはよく判っている。
「なんだ、お小遣欲しいのか?」
博は靴を脱ぎながら、ストレートに聞いた。真由美は足を止める。どうやら、予想的中。
「お前、俺より稼いでるだろ?」
笑いながら父は、真由美の方を見た。真由美は頭を掻きながら、父の方に振り返った。そして、両足を揃えて少し曲げ、鞄を持っていない方の手を、顔の前に持ってきて、父にお願いをする。
「お財布も、バックも、友達の家に置いてきちゃったの。だから、電車賃貸して?」
何ともドジな娘である。父はそう思って呆れた。
「しょうがない奴だなぁ。幾らだ?」
父は、娘の新手なおねだり方法に感心して、サイフを取り出す。そして千円札を一枚引き抜く。
真由美はそれを無視し、父のサイフを覗き込むと、一万円札をピッと引っこ抜いた。
「あっ、それは! お前、どこの友達ん家に、置いて来たんだよ!」
博は片道一万円もかかる様な所から、一人で帰ってきたのかと、心配した。真由美は鞄を書斎のドアの前に置くと、一万円札を両手で頭の上に掲げ、クルクルと回りながら逃げて行った。
博はそんな娘を慌てて追いかけたが、角を曲がった奥から聞こえてきた声に、足を止める。
「カードにチャージするのよー」
博はなるほどと思った。
あのカードは便利だが、チャージのやり方が判らない。
だからいつも山田の奴にチャージを頼むと、一万円を要求されていたからだ。博は放置された鞄を拾い上げると、廊下でクルクルと回る真由美の影に、話しかける。
「しょうがないなぁ。貸したんだからなぁ」
博はそう念を押した。
しかし、娘の影は『ピタッ』と動きを止めると、シュッと素早く縮んで、見えなくなった。
博は返事がないので、急いでその影を追ったが、見えたのは真由美の足の裏だけ。
それも次の角を曲がって、直ぐに見えなくなった。




