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piano  作者: 永島大二朗
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過去との決別(五)

 翌日から、響子が付っきりで真由美をレッスンした。

 真由美がプロになってから、響子はあまり真由美にあれこれ言うことは少なくなった。だからレッスンと言っても、他人が見たらレッスンとは、見えないかもしれない。

 監視の付いた牢獄で、一人延々とピアノを弾く者がいるだけに見える。


 確かにお互いにプロであるのだから、あぁだこうだと言うことはない。幾つかの曲想を確認することくらいだ。

 協奏曲で、指揮者に合わせる必要がなければ、基本的にピアニストは孤独だ。自己表現の場と言っても良いだろう。

 故に、普段から自己主張をすべきであると、響子は考えていた。自分を表現する手段の一つがピアノであると。


 真由美の考えは少し違っていた。自分とピアノは別。自分が凄いのではなく、作曲家が凄いのだと。

 自分と同じことをする人は沢山いる。特に珍しい訳ではない。だからピアノを演奏するときに、自己主張は必要なかった。譜面を忠実に再現すればよかった。

 だから自分が楽しい時、悲しい時、怒っている時、それらの感情を押し殺して、まったく反対の曲を弾くことができた。


 どちらが正しいのか。

 それは、金を稼いだ額という基準であれば、響子が正しい。だから、響子の言う通りにしていれば、正しいプロであり続けることが出来るだろう。

 しかし、それで良いとは言えない。真由美は響子とは違うし『二人目の響子』は、必要とされていないからだ。

 響子と真由美は散々言い争ったが、結論は出なかった。


 しかし、いつまでも言い争ってはいられない。響子はまた、コンサートツアーに行かなければならなかったからだ。

「誰か他の人に監視して貰わないと、ダメね」

 響子は出発前に言った。

 真由美は『監視』という単語に、うんざりという表情を見せる。お構いなく響子は、携帯電話を操作しながら、人選をしている。

「斎木さんが良いかしら。そうしましょう」

 斎木は、昔から響子に弟子入りしているピアニストで、真由美も良く知っている。何でも響子の言うことを聞くイエスマンだ。

 目を瞑って斎木の演奏を聞けば、多くの者は『響子の演奏』と聞き間違えるだろう。真由美はそんな斎木に、あれこれ言われるのは嫌だ。愚痴まで母と一緒だからだ。


 響子はアドレス帳を見ながら「サ、サ、サ」と呟き、斎木の名前を探している。真由美はソファーでそれを見ながら、響子に聞く。

「ねぇ、斉藤さんじゃダメなの?」

 それを聞いて、響子は携帯電話を操作する手を止めた。頭の中にある『ピアニスト名盤』をパラパラとめくっても、斉藤という者は見つからない。

 今日は飛行機に乗るから、ランチを少なめにした。だから、頭の回転は良いはずだ。

「斉藤? 誰? そんな人、うちにはいないわ?」

 響子は真由美に聞き返す。

 斉藤という名前のピアニストはきっと何人かはいるだろう。しかし、響子の知り合いも含め、『今、呼び出せるピアニスト』を思い浮かべることができなかった。


 真由美は少し考えた。斉藤のフルネームを。

 斉藤もよくある姓であるが、名もまたよくあったからだ。真由美は思い出して、ポンと手を付くと響子に言う。

「斉藤秀雄さんよ」

 その名前を聞いた時、響子は頭の中で封印されていた『ピアニスト名鑑』のページが捲られ始める。そして見つける。

 黒いスーツに蝶ネクタイをしたその男は、立体絵本のごとく響子の前に立ち塞がった。響子は慌ててそのページを閉じる。実際の本だったら、凄い音がしただろう。

 真由美は響子の顔色がどんどん変わり、唇が震えているのが判った。そして目を吊り上げながら、ツカツカと歩いてきて、真由美が止まると思った位置より一歩近付き、頭ごなしのきつい口調で問いただされる。

「その斉藤さんは、ピ・ア・ニ・ス・トなの?」

 そう聞かれて、真由美は答えに詰まった。今更思い出したが、斉藤はピアニストではなく、調律師だった。

「いいえ、調律師よ。でもとっても……」

「ダメよっ!」

 打ち消すように響子は言い放った。

 真由美は斉藤が、かつて『天才ピアニスト』と、言われていたことを伝えようとする。それを聞けば母だって、興味を持つに違いないからだ。

「でも……」

「ダメよっ!」

 真由美が言おうとしたことを打ち消す。

 今度は、金切り声の怒号が落ちた。


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