過去との決別(四)
大騒ぎで車に乗せられた真由美は、車中でも響子に怒られていた。怒られ慣れている真由美であったが、今までにないくらい、こっ酷く怒られた。
響子にもピアニストとしての考え、主義主張、心構えがある。それを真由美に全部押し付けるつもりはなかったが、最低限守らなければいけないルールがあると思っていた。
「どういうつもりなの!」
怒り収まらない様子で、響子は真由美を問いただす。真由美は、何が悪いという感じで答える。
「練習よ! 家で練習するより、あそこで練習した方が、聞いてくれる人はいるし、退屈にならないわ!」
響子は怒って右手を振り上げたが、頭の上でプルプルと拳を振るわせただけで、下に降ろす。
ピアニストが、その拳で人を殴るなんて、響子のポリシーが許さなかったのだ。怒っている響子であったが、まだ冷静でいた。
「あなた、プロなのに、人前で練習していいの?」
声を荒げて響子は、また真由美に問いただした。
真由美は響子とは反対の方を向き、窓の外を見ている。横断歩道には沢山の人が歩いていたが、車中で言い争う二人には誰も気が付かない。真由美はその人ごみに、話し掛けるように言う。
「いいじゃない。私をプロと気が付く人なんて、誰もいなかったわ。その辺の、ピアノが弾ける人と同類なのよ。バイトのピアニストよ」
それを聞いて響子は目を吊り上げた。しかし真由美は、その形相を見ていなかった。
「それで良いの? ねぇ、あなたの目指すのはそこなの? コンクールで優勝することじゃないの? 大舞台で喝采を浴びることじゃないの? 場末の喫茶店で拍手を貰えば満足なの?」
響子は怒ると、早口になる癖がある。
「コンサートホールでだって弾くわ。今までだって、弾いて来たじゃない。でもあのお店で弾くのは、それとは違うものがあるのよ」
そう言いながら真由美は響子の方に振り返った。そこに居たのは母ではなく鬼だ。
しかし、その怒りの表情が、急に諦めの表情に変化する。
「あんな所で弾いたって、得る物は何もないわ。時間の無駄よ」
「そんなことないわ。お母さまは何も知らないのよ。あそこで最初に弾いたとき、お客さんに帰られたのよ? 判る? ショックだったわ」
響子は真由美に指差されて驚いた。真由美は前を向く。
「でも今は、帰る人なんて、いないわ」
いつになく反抗的な我が子の言葉を、響子はじっと聞いていた。少なくとも一度は『日本一』になった我が娘。同じ経験を持つピアニストとして、少しだけ意見を聞くことにしたからだ。
しかし、真由美の言葉に、響子は怒っていた。
「そんな、素人相手にむきになってどうするの! 帰りたい者には帰らせておけばいいじゃない。芸術が判らない人は、どこの世界にもいるものよ」
響子は早口になっていた。
「違うわ。そうじゃないのよ。私は、お母さまに言われた通りやってきたけど、それは、あの店では、通用しなかったということなのよ。否定されたのよ」
前のめりになって体を捻り、真由美と対峙していた響子だったが、鼻から息をフッと吐いて、背もたれに体を預けた。
「だから素人を相手にしなさんなって、言っているのよ。曲名も判らない、作曲家も知らない様な人に、何を聞かせたって無駄よ。五分もしないうちに寝るのが関の山。そんなことをする暇があったら、きちんとした所で練習した方が、何百倍も効果的よ」
その言葉に、今度は真由美が切れる。
「私は嫌よ! 私のピアノを聴いた人は、全員私の方を向くのよ! 演奏が終わったら、拍手を貰うのよ! 道端で歩いている人だって振り向いて、足を止めるのよ! そうよ。全ての人が、私に注目するのよ!」
それを聞いた響子は、突然両手で頭を抱えてうずくまった。
その様子に真由美は、母が頭の病気に襲われたのではないかと、錯覚した。しかしそんなことではなく、響子は直ぐに起き上がった。真由美はまた大声で母の小言が始まるのかと思って身構える。今の仕草は自分の声が大きすぎて耳を塞いだに違いない。そう思った。
しかし響子は、窓の外を見ると、ポツリと言っただけだった。
「無理よ。今に判る」
不機嫌そうに言ったかと思うと、響子は突然車を降りる。その行為に真由美は、母・響子に見放され、突き放された気がして動揺した。
車を降りて振り返った響子は、その真由美の顔を見て言い放つ。
「着いたわよ。降りなさい」
真由美は慌てて外を見る。そこは、自宅だった。




