謎の調律師(五)
翌日のリハーサル後、真由美は早速Slowtimeを目指して出掛けた。一体Slowtimeが何なのかさえ判らなかったので、行って見てのお楽しみである。
リハーサルを見に来ていた響子には言わなかった。母親以外にピアノを教わったことはなかったので、何を言われるか判らない。響子は先生としては一流だが、口うるさい存在である。それに母親としては、その三倍も口うるさかった。
それに真由美は、一つ確かめていたことがあった。それは酔った振りをして、響子にエリーゼをリクエストしことだ。響子も少し酔っていたのだろう。笑いながら弾いてくれたが、それは斉藤の音ではなかった。真由美はそれを聞いて、一人で行く決心をしたのだ。Slowtimeには、自分が今までに見た世界とは、別の世界があるのだと、確信していた。
電車とバスを乗り継いで、川べりにやって来た。バス停から住宅地を通るより、少し遠回りでも、土手を歩いた方がわかり易そうだ。もう夕日がだいぶ傾いて、空を赤く染めている。遠くに洒落たログハウス風の建物があって、何だろうと思って行って見ると、そこがSlowtimeだった。
どうやら喫茶店の様である。男性が喜びそうな店だと困る。と思っていた真由美にとって、只の喫茶店であったことは、安堵に値するものがあった。
上機嫌で道路を渡って店に入ろうとすると、店員が出てきて看板をCLOSEにした。
「あっ、終わりですか?」
真由美は、しまったという顔をして店員に聞いた。
「どうぞ。どうぞ」
店員は割とあっさりそう言うと、真由美を店内へ案内する様に扉を開け、右手で扉を押さえたまま、左手でカウンターを差す。真由美は案内されるまま、カウンターに座った。
正面には、とても大きな冬山の写真があった。左足を岩に乗せ、サングラスを取って、にっこりと微笑む、女性登山家だ。何処だろう? 誰だろう? と思った。しかし店員が、先に別のことを聞いてくる。
「ラストオーダーなのですが、昼頃淹れたアイスコーヒーで、よろしいですね?」
「えっ?」
目は笑っていたが、威圧的な調子で言われた。
「ええ、それで結構です」
真由美は思わず頷く。出来ればコーヒーは苦手なので、紅茶にしたかったが、明日出直すよりは良いだろう。
店員はカウンターに回ると、冷蔵庫からコーヒーを取り出して淹れた。そしてまた真由美に言う。
「お会計、先でよろしいですか」
「はい。お幾らですか?」
そう言いながら真由美はメニューを探す。しかし、見つからない。
「千円です」
真由美は口に出さなかったが、とんでもない店に来てしまったと思った。何と言う店だ。真由美は急いでバックから財布を探したが、中々出て来ない。店員はそれを、にこにこと眺めている。
真由美はその様子を横目で見ていたのだが、それ以外にも、並々ならぬ気配を感じていた。
さっきから店の雰囲気がおかしい。ピリピリとした緊張感が漂っている。真由美は、結構勘は鋭い方だ。店に入って来た瞬間、一度突き抜けるような視線を感じた。しかし、だれも真由美の方を見ている者はいない。
店内の窓際には四つのテーブル席があり、一番奥は空席だったが、残り三つに十一人がひしめいている。真由美には異様な光景に見えた。というのは、男ばかり四人が、飲みかけのコーヒーを前に、何も喋ることなく座っていたからだ。他のテーブルも大体そうだった。カウンターから見える大きなテーブルにも、ちらほらと客がいる。カウンターには真由美だけだった。
真由美は怖くなって声も出なかった。あの斉藤という男、今から思えば怪しい雰囲気があった。ここは危ない店なのだろうか。真由美はやっとのことでサイフから千円札を取り出すと、店員に支払った。
「ありがとうございます。じゃぁ、これはサービスです」
そう言うと店員は、冷蔵庫にあった残り物らしきケーキを三つ、真由美の前に置く。
この店に対する評価は、一気に良くなった。先程とは打って変わって、友達に紹介したい店ナンバーワンに、のし上がった。
一つ目のケーキをそっと突付きながら、真由美は、自分が一体何をしに来たのかを思い出した。斉藤はあんなことを言っていたが、きっと来てくれるのだろう。そうに違いない。真由美は待つことにする。
「ケーキは沢山あるし」
そう思った瞬間、バタンという音がして店が急に暗くなった。真由美はビックリして、口に行くはずのケーキが唇に当たった。
クリームを拭きながら振り返ると、客が窓のよろい戸を閉めただけだった。
「なんだ」
真由美は前を向く。確かに、もう閉店の様だ。
するとさっきの店員が、ホールでうろうろしていたかと思うと、奥へ消える。何だろうと奥を覗き込もうとした時、また鋭い視線を感じた。びっくりして、真由美は正面を向く。
正面には登山家の写真があるだけである。腰の辺りに付けられた赤いロープが、写真の外に続いている。あぁ、もう一人居るのだろう。真由美は他に見るものを探して、目だけで付近を見回す。カウンター内は綺麗に掃除されていて、換気扇も止まっている。
何時かしら、と思って携帯電話を取り出すと、今度は、本当に刺されるのではないか、という、強烈な視線を感じる。真由美は辺りを見回したが、誰も真由美を見る者はいなかった。
真由美はまだケーキが一つ残っていたが、帰りたくなってきた。
「この店、何か怖いわ……」
声にならない小さな声で呟いた。