過去との決別(三)
予想外のことに、客はビックリして増田を見た。そして、直ぐに見ない振りをして、耳だけをピンと立てる。感度良好。
増田は、そのまま立ち竦む。
「さぁ、帰るわよ!」
響子は真由美の腕を引っ張ると、強引に立たせた。そして店の外に引っ張り出そうとする。
真由美は少しだけ抵抗したが、偉大な母の前に、成す術がない。母の肩越しに増田の顔を覗き見たが、頼りには、なりそうにもない。真由美は恥かしさもさることながら、母・響子のことを知る増田が、念を押していたのを思い出して、諦める。
頭から湯気を出して真由美を引っ張る響子は、帰り道に店員の顔を見た。チョビヒゲなんて生やした、ふざけた野郎だった。
「貴方、うちの真由美に、何をさせてるんですか!」
「えっ、いや、あの、えーっと」
響子は頭に血が昇っていて、店員の返事なんて聞く気はなかった。直ぐに振り返ると、真由美を睨みつける。
「こんな所で油売って。貴方も貴方ですよ」
ここはガソリンスタンドではない。それに、ピアノ一筋の真由美は、危険物の取り扱いについては不慣れであったし、防火責任者の増田も、燃え盛る炎については、成す術がない。
巨大な炎が真由美を引っ張って、再び動き出す。
「毎日練習もしないで、どこへ行っているのかと思ったら、こんな場末の喫茶店で演奏なんて。冗談じゃないわ!」
カウベルの音が掻き消される程の、大きな声でドアが開く。まだ増田は、口をもごもごとさせているだけだった。
「お母さま、止めて!」
最後に真由美の声がして、扉が閉まった。チリンチリンと鳴るカウベルの音だけが静かになった店内に、こだましている。
主婦三人は『ワクワク』しながら窓の外を眺めている。
真由美は必死の抵抗も虚しく、真由美は外へ連れ出されると、運転手付きの黒い車に、押し込められて見えなくなった。
同じドアから響子が車に乗り込み、自分でドアを閉めると、顎で運転手に合図する。車は直ぐに走り出した。
店内に残された主婦三人組が、クスクスと笑っていた。その内の一人が、増田に話しかける。
「マスター、あの子誘拐されちゃったみたいね」
車が走り去った方を指差して言った。
「えっ!」
増田が響子の顔を、見間違えるはずはない。
しかし増田は、そんな冗談を真に受けた。やばいと思って、入り口まで行ったが、既に車はない。
戻ってきた増田を笑いながら、主婦が口々に言う。
「冗談よ。ねぇ」
「そうよ。でも凄い親ねぇ」
「場末の喫茶店は、ないわよねぇ」
三人は顔を見合わせて笑った。そしてまだビックリしている増田に、声を掛ける。
「マスター、続き弾いて頂戴」
はっとして、増田は客の方を向く。
今の失態は、Slowtimeにとって、物凄く見苦しい所を客に見せたに違いない。その責任者である増田は、慌て始める。
「あ、すいません。かしこまりました」
急いで増田はピアノの所へ行くと、真由美が弾いていた曲を、途中から弾き始める。
「あれ?」
弾きながら増田は思った。何か違う。
さっきまでざわついていた雰囲気が、一瞬にして変わった。
いや、正確には、一度静かになったはずだった。それが何故? 何とも言えない違和感を感じつつ、増田はそっと手元を見た。
左右に動く自分の手の間に、今朝、早苗が作ってくれたエプロンが見える。ヒヨコとハートの可愛いデザインを増田は気に入った。しかし、今、改めて自分が着ている所を見ると、ちょっと恥かしい。
「これかぁ」
眉を顰めた。
確かに曲名とも、曲想とも合っていないのは頷ける。やはりお客様の感性は、誤魔化せるものではないのだ。
納得して増田はまた前を向く。一曲終わったら、エプロンを外せば良い。そう思った。
Slowtimeに、いつもとは違う午後の風が吹いていた。




