過去との決別(二)
今日も午後のひと時を楽しみに来た、近所の主婦達である。洗濯物を片付けて、夕飯の買い物に行く前に、ここで情報収集と作戦を練るのだ。
テーブルの所に来たマスターを見上げ、主婦の一人が代表してオーダーをコールする。
「コーヒーひとつ」
「はい。かしこまりました」
増田は確認をすることもなく、またメモも取らずにカウンターに戻った。
店内には真由美のピアノが静かに流れ始めている。それはバーゲンに乗り込む気持ちを、高ぶるために奏でられているかの様にも聞こえた。
増田がコーヒーを淹れ、お盆に空のカップ三つとコーヒーポットを載せ、テーブルに持って行く。
Slowtimeのコーヒーは高いと思われがちだが、実はそうでもない。コーヒーポット毎頼んでも千円と、かなりお得な設定なのだ。但しその場合は、ケーキが付かない。
主婦達も判っていた。毎日ケーキを食べていたら、虫歯になってしまうことを。
慣れた手つきでお盆を受け取ると、めいめいがカップをひっくり返してソーサーに納め、コーヒーを順番に注ぎ始める。
「熱いのでお気を付け下さい」
「はーい」
増田の忠告をいつもの様に聞き流して、主婦はハンバーグに混ぜる豚肉と牛肉の比率を論議していた。
急に増田は、意見を求められた。増田は店で出している様に、ラードとパン粉とケチャップの話をしようかと思ったが、入り口に人気を感じて顔を上げる。今度は一人客の様だ。
「いらっしゃぃ」
増田は「いらっしゃいませ」と言うつもりで客に声を掛けたが、尻すぼみに消えた。
もう春なのに『ふわふわの毛皮』を着ているその客は、長いスカートを揺らし、イラ付いた『コツコツ』という足音を響かせている。増田の横を通り過ぎた時、横に広がったふわふわが増田に当ったが、詫びの一言すら発する気配がない。
三人の主婦はコーヒーを飲む手を止めて、その毛皮を羨ましそうに眺め、腰を振りながら奥へ歩く客を見ていた。
奥に一人で座る席はない。あるのは大きなテーブルだけだ。混雑している時は、そこにソリストが座ることもあるが、先ずはカウンターからであろう。
主婦三人は、気の弱いマスターが、何て言うのか心配そうに見上げる。予想通り、増田の顔は青くなっていた。
いかにも気の強そうな客は、椅子に座る様子もなく、最後のテーブルも通り越す。もうそこにあるのはピアノだけだ。
その客は、こともあろうに、演奏中である真由美の肩を掴んで止めさせた。
真由美は『足音』には気が付いていたが、西部劇の様に『ピアニストに手を出す人はいない』と思っていたので驚いた。
「真由美さん! 貴方こんな所で、何してるの!」
店内に甲高い声が響き渡って、真由美は振り向く。
そこには、鬼の形相をした母・響子が立っていた。




