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piano  作者: 永島大二朗
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過去との決別(一)

 Slowtimeにも、暖かな春が訪れていた。

 花壇には、もう少し後に満開になるであろう、チューリップが植えられている。だから鮮やかな緑色に染まってはいるが、華はない。

 商売人には嫌な『二月』も、無難に乗り越えてきた。『漆黒の闇で弾くピアノ』の噂が広まり、客がいつもより多かったからだ。

 しかし、あれから暫く、斉藤は店に来なかった。今や伝説となったピアニストの演奏を期待して、多くの常連客がやって来たが、それは叶わぬ夢に終わった。


 真由美の演奏は相変わらず上手かった。それは皆判っている。

 切れのある指使い、時折見せる柔らかなタッチ。幅広いレパートリー。どれを取っても、文句の付け様がない。

 しかし、水清くして魚棲ず。過ぎたるは猶及ばざるが如し。

 真由美が店にいるときは、誰もピアノを弾きたがらない。少し前なら、お客同士が一曲づつ交代で弾くなんてことも、珍しくなかったのだが、最近はそれも減った。

 小さい子供がキャンキャンとピアノを弾いていると、親が止めさせて、真由美に弾くようにお願いした。


 真由美はSlowtimeで、自信を得ていた。

 ホールに比べれば観客は少ないのだが、距離が近いので、百倍緊張する。それに、毎日来る客に、同じ曲を演奏しないように、気を配った。リクエスト以外は。


 今日もピアノを弾いていた真由美は、一段落すると人気の少ないカウンターに戻る。それを見た増田がにっこりと笑うと、冷蔵庫から作り置きのアイスコーヒーをグラスに注ぎ、そこにトンと置く。

「お疲れさん」

「ありがとうございます」

 真由美はグラスにストローを突き刺すと、勢い良く飲んだ。そして一呼吸置いて、増田に聞く。増田は洗い物をしている。

「斉藤さん、最近来ませんね」

 増田はその問い掛けに、ちらっと真由美の方を見ると、またにこっと笑った。

「きっと、もう大丈夫だと思ったんですよ」

「そうでしょうか?」

 真由美には漠然とした不安があった。ちょっと前には考えたこともないような、本当に漠然としたものだ。

「そうですよ。最初ここに来たときより良くなったと思いますよ」

「でも、絶対の自信はないですね。それに夕方の演奏会は、どうしても力が入ってしまいます。やっぱり斉藤さんが傍にいると、安心するんですよねぇ」

 確かに夕方の演奏では、斉藤が居なくても、客は帰らなくなった。それは真由美の演奏が、認められたと言えるのだろう。

 それとも、真由美の紡ぎ出す調べが、Slowtimeの空気として溶け込み、客が無関心になってしまっているのか。

 何も反応のない客に、真由美が抱く不安とは、それだった。


 プロであれば、毎日創意工夫が求められる。真由美は、いつか言われた『飽きられる』という言葉が、脳裏にこびりついていた。席を立つという行為は、今となってみれば一つの評価である。無関心に比べれば全然良い。

「斉藤さん、来てくれないかなぁ」

 真由美はストローを弄りながら、溜息混じりに天井を見た。増田は頷きながら聞いている。

「絶対の自信なんて、あり得ないんですよ。私もあの話しを聞いてから、夕方の演奏会は緊張するようになりましたよ。あ、私はいつもビクビクしながら弾いてるので、絶対の自信なんて、元からないんですけどね」

 皿を洗いながら増田は答えた。


 増田は昔、留学から帰国してコンサートを開こうとしたことがあった。しかしそれは叶わなかった。嫌がらせにあって、ホールが借りれなかったのだ。

 だから増田は、日本ではもう演奏しないと決めていた。

 それは、固い決意だったのだ。


 しかし増田にとって、心の故郷とも言えるSlowtimeにいると、その固い決意も少しだけ緩んだ。

 楽しそうにピアノを弾いている子供の笑顔と、それを見守る幸せそうな親の顔を見ると、音楽の原点を見る気がした。

 斉藤に指示されて、しぶしぶ引き受けたマスター業であったが、増田にとって、ここで得るものは多かったのだ。

 増田がここで初めてピアノを弾いたのは、閉店後カウンターで居眠りをしている一人の常連客がいた時だった。増田は懐かしくなって、ふと手を止めて真由美の方を見る。

「そう言えば、貴方がここに初めて来たときは、自信満々でしたよね」

 増田は余計な一言を添えて、思い出し笑いをした。真由美はこめかみをピクっと動かし、ワザとストローでズズズと音を立て、コーヒーを飲み干した。増田は笑いながら入り口の方を見る。

「いらっしゃーい」

 カウベルがカランカランと音をたてて、三人組みのお客がやってきた。増田は手を拭いてカウンターを出る。もちろん、オーダーを取りに行くのだ。

 増田は日本ではピアニストではなく、只のマスターだった。

 真由美がまた、ピアノへ向かった。


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