嵐の予感(三十二)
祐次は一番上座に来た。そして、一同に振り返ると挨拶をする。
「どうも、遅くなりまして申し訳ありません。遂に私の考案したメニューが攻略され、紅茶がSlowtimeで提供されましたことを、大変嬉しく思います。もし、次があるのでしたら、絶対に攻略されないバージョンを、検討したいと思います」
そう言って頭を下げた。会場からは笑いと拍手が起こった。祐次は頭を上げると、質問する。
「で、誰がクリアしたの?」
ニコニコ笑いながら、左手に持った『どくだみ茶』の箱を、前に突き出した。
「いらねー」
「うわっ、まずそー」
「なんじゃそりゃー」
食わず嫌いが多い会場から、笑いが飛び出した。
しかし、肝心のクリアを名乗り出る者がいない。祐次は会長の方を向いて、聞き直す。
「え、一見さんのクリアなの? マジ?」
会長は首を横に振って、祐次に答える。
「祐次さん、違うんすよ。おっさんなんですよ」
事実を伝えていたが、答えになっていなかった。
会長が指差したホワイトボードを、祐次が見る。すると笑顔が、普通の顔になり、段々真剣な顔になった。その様子に、会場にいた者は静かになって行く。
「名前! 名前は!」
祐次は叫んだ。
Slowtime音楽愛好会は、匿名が基本である。
演奏者の本当の素性は詮索せず、背景を勝手に思い浮かべ、音楽を、ピアノ演奏を、楽しむのが目的である。それは、祐次が言い出したことであった。それなのに、その質問はない。
「祐次さん、どうしたんですか?」
「名前は、言いっこなしじゃないですかー」
祐次は首を横に振りながら、食い下がる。
「判ってる。判っているけど教えてくれ。頼む! 誰だ! 誰か聞いた人はいないのか?」
真剣な表情に、動揺が波のように伝播して走り抜ける。
会長も祐次の様子が尋常ではなかったので、本日の演奏を聴いた人に確認する。
「誰か聞いてないか?」
会長の確認に、再現をした相沢が手を上げる。
「斉藤さんです」
その瞬間、祐次の顔が変わった。
「斉藤さん! 斉藤さんなんだな!」
祐次は、もう一度ホワイトボード見る。祐次には確信があった。ポトンと『どくだみ茶』が下に落ちて転がる。
両手で顔を覆うと、祐次は泣き出した。
「よかった。よかったぁ、生きてたんだ」
直ぐ下にいた会長だけが、祐次の呟きを聞いた。会場はまた、静まり返った。
「祐次さん、知り合いっすか?」
誰かが静寂を破って、祐次に聞いた。
祐次は涙を拭きながら大きく深呼吸した。そして、ホワイトボードを指差しながら言う。
「いや、取り乱して済まなかった。バイトねーちゃんと親子? いや、これは違う。絶対に、違う」
会場からどよめきが起きる。
全員が祐次の話を聞きたかった。祐次も、隠しておくことは出来ないと思った。
会場に一言添えて、話すことにする。
「皆さん、今から話すことは、絶対に『オフレコ』でお願いします。一部推測も入っていますが、Slowtimeのピアノについて、お話しましょう」
会場に詰め掛けた人達は全員頷いた。今や伝説となった『S級』の再現を、誰もが見たかったし、ルールを守るのは、Slowtime音楽愛好会では、至極当然なことなのだ。
「私がまだ、かわいいお子様と、言われていた時代……」
祐次が、ゆっくりと昔話を始める。皆目を閉じて、情景を思い浮かべた。
それは、青空に桜の花びらが舞う日の、出来事だった。
一時間後、緊急招集された極秘臨時総会は、解散となった。
みんな、涙を流しながら家路に着く。ピアノの物語を心に刻み、下座から順に自分の靴を探し、ボレロを後にして行く。
潤んだ瞳から、あふるる涙が止まらない。その代わり、さっきまで激しく降っていた雷雨が、嘘のように止んでいる。
会長も、涙を拭きながら祐次の所へやって来た。祐次は何だろうと思っていると、会長は祐次に頭を下げる。
「祐次さん、一人五千円です」
それを聞いて祐次は、慌てて焼き鳥を摘んだ。しかし葱間は冷え切っていて、串からなかなか抜けなかった。




