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piano  作者: 永島大二朗
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嵐の予感(二十六)

 店内には、増田と真由美だけが残された。

 真由美も斉藤の後姿に礼をしていたが、ピョンと振り返る。そこには『しまった』という感じの顔をしたまま、頭を下げ続ける増田の姿があった。

 真由美は、喜怒哀楽の表情を順に作り、増田を見たのだが、何の反応もない。最後に苦笑いを浮かべると、増田に言う。

「コーヒーをこぼしただけで、あんなに怒るなんて。よっぽどコーヒーがお好きなんですね」

 増田は目を大きくした。しかし、何かを思い出したように、優しい顔になると答える。

「そうなんですよ。コーヒーの一滴は血の一滴って言いましてね」

「あら、それは大変!」

 真由美が両手を口にあててビックリし、床のコーヒーの跡を見つめる。その様子に、増田が驚いた。

「後はやっておきますから。お疲れ様でした」

 真由美は手伝おうとしたが、増田の何か機械的な『お疲れ様』を聞いて止めた。

 こう言う時は、顔が笑っていても『帰れ』と言っているのだ。それは、経験がある。

「はーい。お疲れ様でした」

 ペコリと頭を下げ、席に置いてあったバックを取り、入り口に向かう。そこで二人は、互いにお辞儀をすると、直ぐにカウベルの音が響いた。

 真由美は傘を差してとりあえず外に出ると、入り口の小さな庇の下で、流れ行くライトを幾つか見送った。そして、タイミング良くやってきたタクシーを捉まえて、帰って行く。


 タクシーのライトが見えなくなってから、一人残った増田は、カウンターに向った。そこで溜息を吐くと、店内の電気を全て消す。店内はまた、真っ暗になった。

 しかし、カチッと小さな音がして、ピアノだけが漆黒の闇からポンと明るく照らされる。

 ピアノの陰が、床から壁にかけて流れて行く。


 増田はピアノの所へ行くと、グランドピアノの先端、ゆるやかな曲線の所に立った。ピアノに少し寄りかかりながら、右手の肘から先をピアノの天板に置くと、ゆっくりと話しかける。

「どうだい? 久しぶりの演奏は?」

 ゆっくりとピアノに話しかけたが、ピアノは何も語らない。

 先程の熱気が嘘の様だ。

 スポットライトに照らされて、輝くばかりである。

「俺は、二十年振りで嬉しかったよ」

 増田は微笑んで話しかけた。

 やはり、ピアノから返事はない。

 増田は返事が欲しくて、ピアノの天板をトントンと叩く。

 静かな店内にほんの少しだけ共鳴したが、直ぐに消えた。

 それは、返事とは言えなかった。

 増田は、間を置く。


 大きくゆっくり息をすると、もう一度語りかける。

「やっぱり、お前だって、好きなんだろ?」

 増田はピアノを撫でながら声を掛けた。

 しかし、相変わらずピアノは、だんまりを決め込んでいる。


 このピアノは、斉藤の妻・亜希子の嫁入り道具として、斉藤の家にやって来た。それは、小さな借家には不釣合いな、とても立派なピアノだった。

 近所の人にはそれが、斉藤と亜希子の『家柄の差』を表しているようにも見えた。

 それでも斉藤は嬉しかった。毎日弾いた。朝から晩まで弾いた。かつて斉藤が、愛してやまなかったピアノである。


 今では増田や真由美が、もちろんSlowtimeに来る、多くの客が弾いている。ピアノ教室の子供達も、たどたどしい旋律を奏でる。ピアノはどんな時も、誰が弾いても、美しい調べを店内に響かせた。


 しかし、ピアノにしてみれば、元の持ち主が弾いてくれた方が嬉しいに違いない。


 何も返事をしてくれないピアノに、半ば呆れたのか、増田は苦笑いをしながら、ピアノをポンポンと叩くと、言葉を続ける。


「何とか言ってくれよ。なぁ、早苗」


 奥には、増田の視線の先には、涙を流す早苗がいた。足元には紅茶が入っていたと思われる、カップの破片が散らばっていた。


 今日早苗も、山本家の墓に行った。

 しかしそこには『あいつ』がいた。早苗は暫く背中を見た後、雷に怯えて返って来た。

 いや、本当は『あいつ』に会うのが、怖かったのだ。


 早苗は立ち上がると、ピアノの所へやって来た。そして、スポットライトの逆光に耐えながら、窓際にある三本足の椅子を、目を細めて見つめる。

 あの椅子は早苗が、父・秀雄に投げ付けて、壊した椅子だった。早苗の脳裏に、その時の様子が蘇る。

 早苗は父を『先生』としか呼ばなかった。父もそう呼ぶように、厳しく早苗と対峙した。

 早苗の家に、同居人はいたが、家族はいなかったのだ。そして、事故の後は『あいつ』としか言わなかったし、そもそも口にすることはなかった。あの時、早苗の中で、父は死んだのだ。

 早苗は黒い椅子に腰掛けると、ピアノを見つめた。

 あれから、あの時から『ピアノ』を弾いた記憶がない。

 そもそも、ピアノが好きなのかさえ、自覚がなかった。

 何故か歌手になってからは、避けるように弾かなかった。弾いたのは『キーボード』。ピアノじゃない。ピアノではない。ピアノなんかじゃない。


 早苗は深く息を吸った。そして目を閉じ、ゆっくりと吐き出した。腰を曲げて、もう吐き出せない所まで吐いた。

 少し息を止めていたが、苦しくなって顔を上げると、スッと息を吸った。増田の顔が見えて、安心した。


 ゆっくりと両手を鍵盤の上に持って来ると、一本づつ確認しながら、そっと鍵盤に配置する。

 もう一度、スッと息を吸ったが、思い出したように、足でダンパーペダルを探す。それは、直ぐに見つかった。

 早苗は照れ隠しに、少し微笑んだ。


 Slowtimeに、再びピアノの音が流れ始めた。

 それは、小学生の早苗が、父に褒めて貰いたくて、学校のピアノでこっそり練習した『エリーゼのために』だった。


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