謎の調律師(四)
真由美は一計を講じ、次のコンサートの時、会場に無理を言って真由美は調律師を指名した。責任者は少し不思議に思ったが、新進気鋭のピアニストが、そう希望するならばと承諾した。
真由美は、渡した名刺に書かれた電話番号にダイヤルをする後姿を見て、これでやっと逢えると思った。
指定の時間より前から真由美は待っていた。しかし今日はリハーサルの日ではない。調律をする日だ。真由美は心臓の鼓動が徐々に大きくなるのを感じ、時計の針が約束の時間を過ぎてからは、呼吸が時々止まっているのに気が付いた。
十分遅れて斉藤という男はやって来た。斉藤は真由美の視線に気が付いたのか、声を掛けた。
「はじめまして。お嬢ちゃん。ご機嫌いかが?」
別に、会う約束をしていた訳ではなかった真由美は、暗がりでドキッとした。しかし、斉藤の視線の先にあるのはピアノだった。どうやら斉藤という男は、ユーモアのある男の様だ。真由美は音を立てないように小さく笑った。やっと自分の企みが成就しそうな気がしていた。
斉藤の調律は速かった。次も予定があるのだろうか。三十分程で調律を終えると、男はピアノを弾かずに帰ろうとする。それを見て真由美は、ステージに躍り出ると、斉藤に声を掛けた。
「すみません」
その声を聞いて、斉藤は歩きながらも振り返った。そして周りをキョロキョロし、自分しかいないのを見て立ち止まり、自分を指差した。
「はい?」
「あの、私、新田真由美と申します」
「あ、はじめまして。調律師の斉藤です。料金の請求は、後日会社からさせて頂きます」
体をきちんと真由美の方を向け、丁寧な挨拶を受けた。真由美は手を横に振った。
「いえ、私、会場の人間ではありません」
「そうですか。では、どの様なご用件で?」
斉藤は不思議そうに真由美を見た。
「実は、覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私、貴方のピアノを聞きまして、是非、音の出し方を教えて欲しいと思いまして」
斉藤は一応話を聞いていたが、時計を見ていた。しかし『教えて欲しい』という言葉にもう一度真由美を見た。それに覚えの無いフレーズがあった。斉藤は首を捻った。
「そうですか。んー、最近ピアノ弾いたっけかな?」
その意外な言葉に、真由美はどうしても思い出して欲しかった。斉藤が顎に手を沿え、反対側に首を捻った所でヒントを与えた。
「隣町の駅前ホールです」
そう言うと斉藤は左手を顎から話してふとももの辺りを叩いた。
「あぁ、弾いた弾いた。誰もいなかったのでポロンと一曲」
「はい。エリーゼでした」
「そうそう。あ、あの時の人?」
思い出して嬉しそうに、斉藤は左手の人差し指で真由美を指差した。しかしそれが直ぐに失礼に当ると思ったのか、ゆっくりと五本の指を揃えて少し下に下げ、もう一度指した。
「そうです。そうです」
「そうですか。お元気そうで何よりです」
斉藤はにっこりと微笑んだ。そして、少しだけ偶然の再会を喜び、腕を降ろしながら時計を見る。真由美は斉藤に話し掛けた。
「ありがとうございます。今日は会場に、無理を言って来て頂いたんです」
すると、何か思い当たる節があったのか、斉藤は少し笑った表情から一転、真剣な顔つきになった。
「おや、すると貴方がこのピアノを?」
「はい。今度のコンサートは、ここなんです」
斉藤は話している相手が、プロであることを思い出した様だった。その様子を見て、真由美はやっと自分の存在が認められた気がしていた。しかし斉藤から、プロの真由美に返ってきた言葉は、意外なものだった。
「そうですか。プロなら私なんかに、教わらない方が良いですよ」
何も言う前にキッパリと断られた。真由美はショックを受ける。
「あの、あの……」
「では、失礼します。コンサートの成功、お祈り申し上げます」
斉藤は真由美に背を向けて帰ろうとした。真由美は手だけパタパタさせていたが、斉藤がさっさと歩き始めたので、追いかけて行き、前に回り込む。
「お願いです。貴方の弾く音が忘れられないのです。あれから自分でも出そうとしましたが、出ないんです。それで貴方を探しました。貴方に教わりたくて」
真由美は一気にまくし立てた。それでも斉藤には、動じる気配がない。真由美にとっては修羅場だったのかもしれないが、斉藤にしてみれば、何度も経験したことがある様な、ハエの一匹でも追い払うかの様な感じさえあった。斉藤は首を縦に振る素振りすら見せず、真由美をちらっと見て言う。
「貴方はまだお若い。音の探求は時間を掛けてするものです。一日二日で出来るものではない。貴方もプロなら、それは判っているでしょう。あの時のエリーゼのためには忘れてください」
そしてまた時計を見る。
「え、あの」
真由美が何か言おうとしたが、斉藤はそれを遮って言葉を続ける。
「私にはもう、ピアノを弾く資格が、ないのです」
そう言って斉藤は左手を見せた。火傷の跡が生々しい。しかし真由美は、それには驚かなかった。だからどうしたと言うのだ。
ピアノを弾くのに資格は必要としない。体の不自由な人でプロになった人はいるし、片手だって弾ける。斉藤の左手のそれは、それ位は、障がいの内に入らない。
しかし斉藤は、資格がないと言い切り、勝手に話も打ち切って歩き始める。その声はステージ上の反響板にこだまして、まだ会場に響いていた。まるで斉藤自身に、聞かせている様に。
しかし真由美は、なおもすがった。真由美が何故そこまで斉藤に固執するのか、それが斉藤には判らない。昔もそんなことがあった様な気がしていたが、今はそれ所じゃないのだ。
舞台の袖まで来て、廊下への扉を開けた所で真由美に先回りされる。斉藤はうんざりしていた。
「次の予定があるので、勘弁して頂けませんか?」
「いいえ、私は必死です。貴方にピアノを教わるまで離しません」
ここで騒ぎになれば、斉藤の立場がない。斉藤は、面倒なことになったなと思った。斉藤にとって真由美は、ただの我侭嬢ちゃんでしかない。ちょっとピアノは上手いかもしれないれけど。
「判りました」
斉藤も覚悟を決めた様だった。周りを見渡してそう言うと、鞄を置いた。
真由美は手を離して一歩後ろに下がったが、斉藤がさっき見せた笑顔の様に『なんちゃって』と言って逃げ出したら、直ぐに飛び掛れる様、身構える。
心配は不要だった。斉藤は鞄から手帳を出すと、何やら書き出した。そしてビリっと破くと真由美に手渡した。それは住所と『Slowtime』と書かれた地図だった。
「ここへ行って、『斉藤に言われて来た』と言ってください。悪い様にはしません。よく言っておきます」
そう言ってしゃがむと、手帳を鞄に放り投げ、蓋を閉めた。
「斉藤さんが、教えてくださるのではないのですか?」
その質問に、斉藤は鞄を持ちながら答える。少しキツイ言い方だった。
「私には貴方を教える資格がありません」
ピアノを教えるのに資格が必要か。否。真由美はスッパリと否定した。教えは必要と認めた人から、必要なことを教われば良いのだ。後は自分でなんとか出来る。
真由美がそう思っていたのを見透かしたのか、斉藤は、言葉を続ける。
「それに、貴方がプロとしてやっていくのならば、私とは逢わない方が良い。これは、貴方の為なんです。申し訳ありませんが、それで勘弁してください」
斉藤は、今渡した真由美の手にあるメモを左手で二度指差し、右手に持った鞄の握りを持ち直した。そして時計を見ると、再び歩き始める。
真由美は、今度は追い掛けなかった。追い掛けられなかった。真っ直ぐなホールの廊下を歩いて行く、斉藤の後姿を見つめていた。
何度も時計を見ていた割には、小走りになる訳でもなく、むしろ堂々とした歩きだった。薄暗く、電気も付いていなかったので、足音だけがやけに大きく響く。
真由美は目の前で、斉藤との距離がどんどん離されていくことが、とても不安に感じられた。この出会いは、真由美にとってチャンスだったに違いない。響子の庇護の下、全てを手に入れて来た真由美にも、無い物があった。実感させられる。
そのこと自体が収穫とも言えるが、真由美は、そんなことで満足する訳にはいかない。真由美はもっと上を目指すのだ。
斉藤はホールの入り口で、一瞬だけ光を浴びて輝く。真由美から見て、逆光が当っただけだ。しかしそれが真由美には、母とも違うもの、それに及びもしないオーラに見えた。
真由美はふと気が付いて手元を見た。メモをバックにしまうと、厳重に蓋を閉める。別のプロを紹介してくれるのだろうか。少しだけ不安に感じ、そして、少しだけ不思議な気分になった。真由美は今、斉藤が歩いて行った方に歩き出す。
斉藤と同じ様に、堂々と歩いたつもりではあったが、足音は少し甲高く、そして、あまり良い音とは言えなかった。