嵐の予感(二十四)
よろい戸を叩く、鈍い雨音がこだましている。
「『エリーゼのために』は、アンコール用なんだけどね」
弾け弾けビームの集中砲火を浴びて、斉藤が笑いながら席を立った。三本足のイスが揺れて、斉藤の足に当たる。
その様子を、カウンターの中で横目に見ていた増田はホッとした。そして、期待する。事情を知らない真由美の、無邪気なお願いに、増田は心から感謝した。
期待したのは、常連客も一緒だ。
斉藤は左手をポケットに入れると、観客の間をすり抜けてピアノの所へ行くと、振り返った。いつもは下を見ている観客達だが、今日は何故か、顔を上げている。
不思議なことに、本を読む振りとか、そういう気遣いは、まったく必要がないと感じていた。それに答えるように、斉藤は右手を高くあげると、ゆっくりと左下まで振り下ろし、観客に挨拶をする。Slowtimeでは珍しい、拍手が起きた。
「ありがとうございます。ありがとうございます。人様の前で弾くなんて、二十年振りですが、リクエストにお答えして一曲、弾かせて頂きます」
そう言うと、深々とお辞儀をする。
再びそこで、拍手がおきた。それを背中に受け、ピアノの前から椅子に向う斉藤が、観客の方をにパッ振り向き、一言付け加える。
「間違えちゃっても、笑わないで下さいね!」
お茶目に話す斉藤の挨拶に、観客から笑いと拍手が起こった。
暖かいオレンジ色の灯りの下、それは、ピアノに覚えのあるおっさんが、昔ちょこっと覚えたピアノを、弾くだけに見える。しかしそんな雰囲気は、笑顔のまま椅子に腰掛け、斉藤が鍵盤に手を添えるまでの、ほんの短い間だけ共有された、認識だった。
斉藤は、鍵盤の一番左に右手を添えると、一番右まで一気に全音を弾く。あっという間の出来事だった。観客達は、今のが何の曲だったのか、頭の中で照合を始めたが、該当する曲はない。
何が起きたのか判らず『ポカーン』としている観客達に、斉藤は気が付く。
「あ、私、調律師なので、気になるんです」
観客の方を見て、斉藤は右手で頭を掻きながら言い訳した。
「おぉ、なるほどー」
常連客の誰かが言った。増田は「なるほどじゃねぇ」と思って、少し得意気に笑った。
斉藤は深呼吸をすると、やさしくピアノと語り始める。増田は目を閉じた。しかしその瞬間、音もなく電気が消えて、店内は真っ暗になった。
増田はそれに気が付かない。
観客は一瞬、息を呑んだ。
最後に見えたのは、斉藤の顔が『別人』に変わった瞬間だった。普通、目の前が真っ暗になったら、人は動揺の声を上げる。しかし誰も、そんな声を上げなかった。ピアノの音は途切れることなく美しいメロディーを奏でており、そのメロディーがある限り、観客の目の前には、時を越えて、様々な風景が映し出されていたからだ。
まるでSlowtimeが、大きなオルゴールだ。ピアノを飛び立ったメロディーは、天井に当り、床に当り、壁を揺らして乱反射する。そして、観客達の心を突き抜けて行く。
増田は久し振りの感覚に、酔いしれていた。
真由美は暗闇の中で思った。
初めて聞いた時の、エリーゼではないと。あの辛く、悲しい曲想ではない。しかし、どこかで聞いたことのあるような。いや、そんなはずはない。
真っ暗な店内で、真由美は色々考えた。
中間部でテンポアップした時、真由美の目の前に風景が広がった。
桜の花びらが風に吹かれて舞っている。見上げれば枝の隙間からは青空が覗く。
それを見上げながら、元気良く駆け抜けていく女の子。誰だろう。風が吹く度に舞う花びらを追いかけて、笑いながら走る。
あ、こけた。
泣きそうになるが、笑いながら抱き抱えられる。
暖かい大きな手。女の子は、そのまま肩車されて、転んだことなんか忘れている。隣には、隣には、あれ、誰も居ない。
え? お母さんはどこ? 桜吹雪で見えないのかしら?
真由美は声を掛けようとする。その瞬間、パッと電気が点く。
真由美は我に返った。
当然のことをしたかのように、斉藤は弾き終えた。
そして、ゆっくり目を開けると、常連客に向かって一礼する。
割れんばかりの拍手を受けて、斉藤は少し照れくさかった。本人が『一曲』と言っていたので、誰もアンコールを求めない。
それに、皆思っていた。
このまま気分良く、余韻に浸りたいと。




