嵐の予感(二十三)
ある暑い日。外では真っ黒な雲が、広がっている。
夕方から雷雨、という天気予報を聞いていても、夕方の客はそれなりに集まる。やがて、珍しく予報通り、ポツリポツリと大きな雨粒が落ちてきた。むしろそこへ、何人かが走りこんで来たので、Slowtimeは、いつもより人が多い。
マスターが、ラストオーダーを聞いて回っている時、常連客は、今日もマスターの演奏が聴けないと思っていた。いや、真由美がいる限り無理であることは、何となく判る。
一歩Slowtimeに入って真由美がいると、常連客は、しかめっ面をしたとは、記録にない。真由美は、母・響子の方に似て、まぁまぁ美人だったし、コーヒーを服の上に溢したり、なんてことも、たまにしかなかったからだ。
夕方になって真由美が奥から姿を現し、ピアノの準備を始める。それを見て常連客は、舌の先で窒素を、少しだけ弾き飛ばした。
じっと真由美の様子を伺っていると、真由美が客の方に向って来る。みんな本を読んだり、コーヒーを眺めていたのだが、コツコツという足音が近付いて来るので緊張する。
まさか、連弾の申し込みだろうか。ピアノが弾ける何人かは、そう思った。真由美と一緒に音楽の世界へ行くなら、それはそれでも楽しそうだ。
いや、そうじゃない。一瞬の迷いが、Slowtimeに渦巻いた。
しかし、真由美が足を止めたのは、今日も足を投げ出して『失恋席』に座る、男の横だったのだ。
常連客達は、名も知らぬ男に、嫉妬する。
「斉藤さん、『エリーゼのために』を弾いてくださいませんか? いいでしょう?」
その瞬間雷鳴がして、失恋席の男、斉藤の顔が青白く光った。
真由美は笑顔だったが、斉藤の顔は、そうでもなかった。叩き付けるように降り始めた雨粒と、そのせいで徐々に見えなくなっていく景色を眺めている。傘を忘れて来たにしては、厳しい表情だ。
真由美の言葉が耳に届き、翻訳され、意味が通じるまで、少し時間がかかったようだ。斉藤が表情を変えずに、首だけをゆっくりと回し、真由美の腰の辺りで一度止まった。そこから表情を変えず、ゆっくりと目線を上げて行く。
斉藤は微笑む真由美と目が合って、暫く見つめ合っていた。
その様子を、気が遠くなりながら見ていた増田は、左手の力が抜けて行くのが、自分でも判らなかった。
増田の手を離れた白紙のオーダー票は、糊付けされた方を下に向け、パタパタと小さな音をたてて落ちて行く。床に当って、鈍い音がした。
それは、案外小さな音だったが、落下音に気が付いて、真由美が振り返る。
真由美の目には、雷に驚いて落したオーダー票を、慌てて拾う増田の後姿があった。それは男として、余りにも情けない背中だ。
真由美は再び、斉藤の方を見て微笑みかける。
稲光がSlowtimeの木目を、よりはっきりと映し出した時、多くの常連客の目も、同時に光っていた。
マスターがオーダー票を落したのは、雷鳴のせいではないとも、見抜いていた。常連客の首と肩が、ゆっくりと稼動し、合わせて、三十四の瞳が、一斉に斉藤を捉える。
斉藤は思った。何故か自分に、視線が集っている。その理由を考えた。何かの冗談だろうか。そうに違いない。
あ、判った。よろい戸だ。
斉藤は左手をポケットから出して、最後のよろい戸を閉める。
音を立てないようにそっと閉めたのだが、まだ視線が集っている。斉藤は考えた。一体、何が起きているのか。
薄暗くなった静かな店内。誰も動かない。
斉藤の左半分が影になって見えなくなり、オレンジ色の灯りが、斉藤の右半分を照らしていた。




