嵐の予感(二十二)
外はすっかり暗くなっていて、扉が閉まる時に、涼しい風が少しだけ入って来る。真由美は増田に聞く。
「奥さん殺したって、本当なんですか?」
増田は真由美の方を見た。何も知らない様子だった。
確かに、真由美が生まれる、ほんの少し前の出来事だ。しかし、『新田家の人間』で、斉藤の過去のことを、知らないはずはないと思っていた。
真由美が斉藤のことを、全く知らないのだとしたら、新田家にとって斉藤は、存在すら許されていないのだと感じる。増田は、きょとんとした目で見つめる真由美を見て、これまでの行動に納得した。
そして答える。
「人には、話したくない過去もあるんですよ」
少し怖い顔だったかもしれない。
真由美は、否定も肯定もしない増田の答えに驚いた。苦悩の顔を増田に見せたが、増田は直ぐに、斉藤が去っていた方に、目をやっていた。
増田は思っていた。
あの事故がなければ、斉藤はこんな所にいる男ではないと。
もう一度、斉藤の演奏が聞きたかった。
きらめくステージで、熱いスポットライトと視線を浴びながら、全身で演奏する斉藤が見たかった。
大勢の観客が斉藤を称え、スタンディングオーベーションで拍手をする所を見たかった。
そして、そんな斉藤が、自分の師匠であることを誇りに思い、幸せに感じ、友達に自慢したかった。
もちろん、プロになったら目標になるはずだった。
その全てが、あの日に砕け散った。
真由美も帰ったその日の夜、月明かりだけの薄暗いSlowtimeに、遅くまでピアノの音が、響いていた。
それから十日程、真由美はSlowtimeでピアノを弾いた。斉藤が来る時も、来ない時も変わらず弾いた。そして真由美は、斉藤が聞きに来てから、一度として同じ曲を弾かなかった。
それは後に明かされる、Slowtime音楽愛好会の全記録を見れば、明らかにはるはずである。
しかし、誰も気が付かなかったが、真由美が『絶対に弾かない曲』があった。
それは『小学生でも弾けるから』という理由だけでは、説明が付かないだろう。




