嵐の予感(二十一)
「で、何だっけ?」
斉藤は真由美に聞いた。斉藤の席に真由美が来たのは、何か理由があるはずだ。しかし斉藤は、つい自分の昔話をしてしまった。
この席に座っていると、遠い昔を思い出す。来るはずのない亜希子が、笑顔でガラス窓を『コンコン』と叩く。それを待っていた、あの日々を。
そんな思い出を振り払い、斉藤は真由美の方を向く。
真由美は、まだ質問すらしていなかったことを思い出す。
「どうでした? 私の演奏。良くなりましたか?」
「良くなったんじゃないかな」
斉藤はコーヒーを飲みながら頷いた。それを聞いて、真由美は小さく息を吸った。やった、認めて貰えた。一瞬にして、道が開かれた気がする。
斉藤はカップを置くと、後ろにそっくり返り、顔を上げた。
「だって、お客さん、全然帰らないじゃない。なぁ、雄大」
「そうですね」
斉藤に睨まれて答えた。世間的に言うと、顔は微笑をたたえていたと言えるのだろうが、増田にとって斉藤の表情は、関係ないのだ。
斉藤の目に睨まれたとき、増田は斉藤の後ろに、音楽を感じる。激しく荒々しい旋律が、増田を襲う。その荒波を、増田は到底抑えることができず、ただ立ち竦むだけなのだ。
増田は、真由美のピアノも良くなったと思うが、お客が帰らないのは別の理由だと思っている。しかし真由美は、無邪気に喜ぶ。
「よかったー。斉藤さんがそこに座っていると、何か落ち着いて弾けるんです」
増田は、真由美がある意味羨ましいと思った。
増田は斉藤の弟子ではあったが、斉藤の前で弾いたことなど、数える程しかない。
レッスンの時間、演奏をしていたのは斉藤だった。増田は斉藤の横で、流れる様な腕と、不思議な動きをするピアノの弦を見て、激しく振動する空気を感じていた。
増田がピアノに触れられたのは、斉藤が長いトイレに行った時だ。そのときでさえ思った。部屋に残る音の余韻を壊すのが惜しいと。
斉藤の後に増田がピアノを弾くと、窓も、床も、壁の絵も、植木鉢でさえ、不満を言っているように見えた。
「そうか。それは良かった。苦手意識は、なかなか消えないものだからね」
斉藤が真由美に言った。横で増田も頷く。あの時の感動は、一生消えないと思っている。
斉藤に言われた真由美は、少し困った仕草をする。
「そうなんですよ。私は斉藤さんのエリーゼを聞いてから、エリーゼが弾けなくなってしまいました」
何を言うんだと言わんばかりに、斉藤は手を縦に振ると、黙って笑った。
真由美は思い出す。
「それにこの前、エリーゼしか弾けない方が、お店にいらしたんですよ」
まだ真由美は、言葉を続けるつもりだった。しかし真由美の言葉を聞いて、斉藤は前のめりになり、少し怖い顔で真由美を見ると、話を遮る。増田は、膝の裏に力が入った。
「ピアノは、言葉と同じです。弾けない人は無口なだけ。無口だからと言って、その人がダメな訳じゃない」
真由美は姿勢を正した。
斉藤は真由美の目を見ながら、言葉を続ける。
「だからピアニストは、ピアノを通じてお話をするときは、ちょっとお喋りが上手なだけなんです」
真由美は頷いた。心のどこかで、エリーゼしか弾けない人を馬鹿にしていたのだろうか。自分が優越感に浸っていたのか。高慢だったのか。そんなつもりはなかったし、それを指摘されるとは、思ってもいなかった。
それに、話をしたかったのは、その続きだったのだ。
「ピアニストの想いが、聴いている人に伝わったとしましょう。しかし、それを聴いていた人は、一人とは限らない。会話をピアノで返すのも、無理かもしれない。そもそも言葉に、ならないかもしれない。心に沢山詰まった、そんな想いを、多くの人が、同時にピアニストに返す手法として、選ばれたのが『拍手』なのです。だから、誰が明日からピアニストを名乗ったって、止めはしない。人は、自分の想いを、人に伝えられずには、生きられないものなのですから」
斉藤はそう言うと、にっこり笑った。そして増田に声をかける。
「ごちそうさん。じゃぁ、今日は帰るで。お休みなさい」
「ありがとうございました」
「お疲れ様でした。あ、そのままで結構ですよ」
斉藤が立ち上がり、カップを持とうとしたので止めた。斉藤は素直に従うと、左手をポケットに入れたまま、入り口のドアへ向った。
カウベルを鳴らして扉を開けると、足で押さえる。
右手を上げて、夜の闇に消えた。




