嵐の予感(二十)
斉藤にとってこの店は、自宅に等しい。メニューなんて、見る必要がなかったのだ。
真由美は紅茶を頼む時の、増田と客の間で行われる『変なやり取り』が気になっていた。真由美が知る限り、あのメニューを聞いてオーダーが出来る人は、いなかった。
「とても変わったメニューで……」
「あぁ、雄大の奴、気を使っているのかな。馬鹿だなぁ……」
また真由美の言葉を打ち消すように、斉藤が言った。そこへ増田がトコトコとやってきて、紅茶を真由美の前に置く。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
真由美は座ったまま一礼し、カップを顔の前にもって行くと、紅茶の香りを楽しんだ。それから一口飲んで微笑むと、ミルクを少し入れる。
増田は温くなったコーヒーを、立ったまま飲んだ。
「お前も座れ」
「いえ、結構です」
斉藤に言われて、笑いながら、でもキッパリと断った。斉藤の隣に座るなんて、恐れ多い。
斉藤は別に、隣に座れと言っていた訳ではなかったが、それ以上は言わず、真由美の方を向いた。
「この店はね、妻のために建てたんだ」
「そうなんですか」
斉藤は店内をゆっくりと見渡し、最後に増田の影に隠れたピアノを見る。増田は直立不動のまま動かない。斉藤がゆっくりと話し始めるのを、黙って待っていた。
「若い頃、苦労してお金貯めて、やっと建てられると思ったら、離婚しちゃってね。勢いで妻は殺しちゃうし。あはは。あれはね、妻の遺品なんだよ」
斉藤は、もう一度ピアノの方を見て、それから顔を上げて増田の方を見る。
「なっ」
増田は小さく頷いた。
真由美はビックリする。紅茶を持つ手が震えてきた。恐ろしくなって、紅茶をソーサーに置く。
「妻は、コーヒーが嫌いでね。ちょっと喧嘩した時に『店で紅茶なんか、出してやるもんか!』って言っちゃって。あれは俺が、馬鹿だったなぁ」
斉藤は懐かしそうに言っていたが、真由美には刺激的な内容だった。斉藤は、また上を見上げ、増田を見ると、にっこり笑う。
「なっ」
増田は大きく頷いた。
「お前も俺のこと、馬鹿だと思っているんだな!」
笑いながら、斉藤が増田を責める。増田は慌てて手を横に振ったが、何も言わなかった。
「あんまりごちゃごちゃ言うから、『俺を愛しているのなら、コーヒーしかない店でも来て見やがれ!』って言ってやったんだ」
斉藤が昔の様に、少し声を荒げて言った。増田は、斉藤が振る前にうんうんと頷く。真由美は「へー」と言って頷いた。
「それで、来てくれたんですか?」
真由美は聞いてみた。斉藤は笑いながら首を横に振った。
「それが、一度も来てくれなかった。一度もね。俺はコーヒーより嫌われていたんだね。ホントは美味しい紅茶を、用意してたのにさ」
斉藤は顎で真由美の紅茶を指した。真由美は両手でカップを持ち、紅茶を飲んだ。
「ホント。美味しいのに。何で来てくれないんでしょうね」
真由美はうっかり質問形にしてしまった。しかし、斉藤は笑って答える。
「そりゃぁ、俺が殺したからだろう。やっぱり怒ってるんだろうなぁ」
ポリポリと頭を掻く斉藤を、真由美はじっと見ていた。
「あれはまずかったよなぁ」
斉藤にとっても、当時中学生だった増田にとっても、『まずかった』の一言で片付けられることではなかった。
斉藤の人生はもちろんのこと、周りの人々の人生は、そこで大きく、変わってしまったのだ。




