嵐の予感(十九)
真由美がSlowtimeで、ピアノを弾く。
昼間もそうだが、あんなに嫌がっていた夕方も弾いた。増田は、カウンターの中に篭って、出てこない。
何故か。
周りの人から見た理由は、ただ一つ。プロのピアニストである、真由美が弾いているからだ。カウンターの隅には、真由美のCDが置いてあって、真由美が『CDを出すほどの人物である』ことを示している。
しかし、本当の理由は違った。
Slowtimeの窓際の席、その一番奥にある『壊れた三本足の椅子』を揺らしながら、長居する客がいた。斉藤だ。
火傷のある左手を隠し、足をテーブルの外に伸ばして組むと、そっくり返って、コーヒーを飲んでいる。正に、指定席で寛ぐ感じだ。
日が傾いた頃にやって来て、ドカッとそこに座ると、閉店まで動かない。
正確に言えば、息はしていた。まばたきもしている。時々あくびをしたり、夕日を直視して眩しい顔をしたり、真由美が演奏中に立つ客がいれば、凄い顔で睨んだりするだけだった。
常連客は、救いを求めて増田の方を見たが、増田は知らん振り。カウンターで乾き切った皿を、何度も拭くだけだ。
のどかなSlowtimeの日常に、突然現れた『常連客』斉藤は、誰の目にも『扱い辛い客』で、あることは、明らかである。
夕方、三十分程の演奏が終わると、常連客は背中に感じる斉藤の視線から開放されて、汗が一気に噴出した。冷たくなったコーヒーを一気飲みして帰って行く。真由美はそれを笑顔で見送る。
カラカラと、中途半端に鳴り続けるカウベルがやがて静まると、店に残った客は、斉藤だけになる。
真由美は斉藤の席に来て、反対側に座った。
「おい、雄大、コーヒー二つ。お前も飲むなら、三つだ」
「はい」
レジを締めながら増田が返事した。増田は慌ててコーヒーカップを二つ用意すると、新しい豆を出して挽き始める。
Slowtimeに、再びコーヒーの香りが漂ってきた。
真由美は最初、斉藤に教えを請うたが断られた。その斉藤が目の前で、自分の演奏を聴いていたのだ。何か感想でも聞けたらと、思ったのだ。
一方の斉藤も、いつもは演奏が終わったら、他の客と一緒に帰るのだが、今日はもう少し、真っ赤な夕焼けを見ていたかった。
そそくさとコーヒーを準備する増田を、振り返りながら見た真由美が、斉藤の方に振り返ると、小さな声で言う。
「私、実は、コーヒー苦手なんです」
真由美が笑っている。斉藤は「おや」と小さく言った。
「おい、雄大、一つ紅茶なぁ」
少し遅かった。もう増田はコーヒーを二つ淹れ、お盆に載せた所だったのだ。
「はい」
そう返事した増田は、コーヒーを二つ持ったまま斉藤の所へ行く。コーヒーを先に斉藤の前に置いたので、斉藤は増田に声を掛けた。
「お前も飲むのか。まぁ、そこへ置いておけ」
「はい」
斉藤の一言に、増田は慌てて返事した。そして紅茶のオーダーをするために、大きく、とても大きく、息を吸う。
「紅茶は、アールグレイでよろしいですか?」
増田の提案に、斉藤は何を言っているんだという感じで、首を横に振った。
「アッサムの、セカンドフラッシュがあっただろう?」
それを聞いて、真由美は両手を顔の横に持って来て賛同。
「まぁ、私、ミルクティーの方が好きですわ!」
斉藤は真由美の方を見てにっこり微笑むと、そのままの顔で増田を見た。
「だ、そうだ。OK?」
「かしこまりました」
増田は一礼して、カウンターの奥に走りこんだ。それを見送りながら、斉藤は淹れたてのコーヒーを口にする。
「この店、ティーパック以外の紅茶が、あったんですね」
真由美が言うと、増田はコーヒーを吹きそうになった。
「そりゃぁ、ありますよ」
斉藤は当然の様に真由美に言った。それを聞いた真由美は、余計不思議に思った。
「でも、メニューには載ってませんよね。それに……」
「え、そうなの?」
真由美の言葉が、余程不思議に思ったのか、斉藤が真由美の言葉を遮った。
「そう言えば、この店のメニューなんて、見たことがなかったなぁ」




