嵐の予感(十八)
斉藤は身を乗り出した。
「それで、百億円貰ったんですか?」
斉藤は、おかしくて堪らない様子で、笑いながら真由美に聞く。真由美は、思い出すのも嫌な位だったが、正直に答える。
「はい。その時は、私も頭に血が昇ってまして、出してみろって、言ったんです」
「本当ですか?」
斉藤は更に身を乗り出した。増田は黙って、そんなことは言わなかった。話の続きを聞いてみたい。
「そうしたら、紙に『ひゃくおく』って書いて出したんです。『誰も百億円』なんて言ってない。私が勝手にお金だと思っただけだと」
「あはは! 雄大やるなぁ」
真由美はそれを聞いてハッとなった。今の話は増田ではなく、祐次から言われたことだった。慌てて訂正しようとする。
「俺も昔、そんなことを言った覚えがあるなぁ」
先に斉藤が口を開いたので、真由美は言えなくなった。斉藤は少し遠い目をしている。しかし、直ぐにピントを真由美に合わせると言う。
「それで、どうしろと言われたんですか?」
斉藤に言われて、真由美は訂正より先に、続きを話す。
「ピアノで語るなら、作曲者の気持ちが判らなければならない。だから作曲しろと言われまして、それで何曲か書いてみました」
そう言って真由美は、鞄から楽譜を取り出した。それをテーブルの上に置く。斉藤はそれを見ないで、真由美に聞く。
「楽譜は、作曲家の魂だ。そう言われたんですか?」
真由美はテーブルのお茶で、楽譜が汚れないかを気にしていた。しかし、そう聞かれて斉藤を見る。
「はい。そうです」
斉藤は嬉しそうに、ポンと膝を叩くと言う。
「そうかぁ、アイツも言う様になったなぁ」
斉藤はまた少し遠い目をした。真由美はうっかり「はい」と答えてしまったが、それも祐次が言ったことだった。
成り行き上、もう訂正は出来ない。
「あのう、お手数ですが、この曲の感想を頂きたいのですが、如何でしょう?」
遠い目をしている斉藤に、真由美は話しかけた。斉藤は楽譜を見ると、手も触れず答える。
「これはブラームス、これはモーツァルト、これはショパンのコピーだね。うん。よく出来てるよ。最初は誰でも物真似から入るんだ。頑張りなさい」
斉藤の批評は三曲纏めて五秒で終わった。席を立った斉藤の膝が目の前にあった。真由美はショックだった。
「全部、オリジナルなのですが……」
真由美の声が後ろから聞こえて、斉藤は振り返った。斉藤はにっこり笑って、真由美を慰める。
「いや、沢山聴いていれば自然と好みも出ますし、生活のリズムまでその曲に染まります。歩きながら、喋りながら、ご飯を食べながら、頭の中で奏でられているメロディーやリズムは、例え作曲をしている時であっても、消えることはありません」
斉藤は、若き天才ピアニストに、優しく話しかける。真由美は子供の頃を思い浮かべた。斉藤の話は続く。
「そういう意味で貴方は、小さな頃から沢山の名曲を聴いているのですから、当然です。作曲をする時は、そういう過去の自分、人から与えられた自分、影響を受けた自分を脱ぎ捨て、心の奥底に渦巻く本当の自分。包み隠していた、本当の自分の姿と向き合うんです」
胸に手を当てて、グルグルと回しながら、斉藤は真由美に説明をした。そして、両手を天秤の様にすると、左右に傾きながら話を続ける。
「それはもう、自分で見つめるのもおぞましい程、黒くドロドロしているものなのか、天使の様に優しく、美しいものなのか、それは判りません。貴方の心の奥底にある自分と向き合ってこそ、オリジナルと言えるでしょう。これはまだまだですね。楽譜に、スピード感がない」
真由美は、じっと聞いていた。
斉藤は、にっこり笑うと真由美に「OK?」という感じで、首と手でポーズを取る。しかし、真由美からの反応は薄かった。
斉藤は、席へ戻りかけたが、もう一度振り返った。
「あ、でもそんな曲が『名曲』とは限りませんし、売れる曲とイコールという訳でもありませんよ」
斉藤が釘を刺す。
しかし、真由美の心には、既に大きな楔が、突き刺さっていた。




