嵐の予感(十七)
「ただいまー」
後ろから声がする。斉藤だった。
真由美はホッとしたと同時に、緊張が走った。思い切って右回りに振り返ったが、斉藤は真由美とは気が付かず、真由美の左側をすり抜ける。
「斉藤さん!」
結局、真由美はその場で一回転して、斉藤の後姿に声を掛けた。不意に声を掛けられた斉藤は、その場で振り返る。しかし、誰だろうという顔をした。
「私ですか?」
斉藤は自分を指差して言った。真由美は、また忘れられている。
そんなに印象が薄いのかしらと思った。もしかしたら、ワザと? 真由美は少しカチンと来た。
「あの、私……」
そう言い掛けた所で、斉藤は右手を挙げる。
「ちょっと待って下さいね。あ、こちらへどうぞ」
斉藤は真由美を案内して、奥の応接セットを指した。
「社長、お茶淹れてあげて。俺、伝票書いちゃうから」
斉藤は受け付けの老人にそう言うと、鞄から書類を取り出すと机に向かった。真由美は応接セットに座って斉藤を待った。
一度社長が、お茶を持って来てくれた。真由美は立ち上がって礼をする。社長は無愛想に「どうぞどうぞ」と言って去った。帰り道、斉藤の机に寄ると、大きな湯飲茶碗を置いた。斉藤は座ったまま「お、どうも」と言って一口飲む。
「あちっ。あ、社長! これ、持って行って」
斉藤が伝票を掲げてピラピラと振ると、それに釣らて社長が戻ってきた。
「あいよぅ。ご苦労さん」
社長はそう言って伝票を受け取ると、元の道を戻った。斉藤は熱いお茶をフゥフゥしながら、音を立ててもう一口飲んだ。
「やっぱ、平場のは硬いなぁ」
「やかましい」
「川根にしようよ川根」
「川根は買わねェ」
「しょうがねぇー」
斉藤と社長が何か言い争って、挙句笑っていたが、真由美には良く判らなかった。
斉藤は笑顔でお茶を啜りながら、真由美の所にやってきた。そして反対側のソファーに座る。
「どっこいしょー」
大きな声で座った。そして真由美を見た。斉藤は「何だっけ?」という顔をする。そして、それを誤魔化すように、チラッと時計を見た。思い出せる訳もなく、斉藤はもう一度真由美を見て、聞く。
「失礼ですが、どちら様でしょう?」
斉藤は手帳を出しながら聞いた。そして、何か色々と書き込まれた手帳をパラパラと捲っている。しかし、何も思い出せなかった。
「あの……、私、新田真由美と申します」
真由美が名乗ると、斉藤はパタンと手帳を閉じ、真由美を見た。
「あぁ、新田さんでしたか。いやぁ、お客さんの名前忘れちゃうなんて、俺も年だなぁなんて、一瞬思いましたよ」
斉藤は手帳を振りながら、明るく誤魔化した。
「あはは。えーっと、確か雄大、増田に指示してあったと思いますが、何か問題がありましたか?」
斉藤は思い出した。押し掛けねーちゃんだと。あれから二年も経っているのだから、結構上手くなっている頃だろう。
「いえ、問題なんてとんでもない。問題があるのは私の方ですから」
「そうですか。彼もたまには、人に教えるのも良いことですよ。夜道は人の為ならず。なんてね」
「はぁ……」
真由美は答えに困った。街中で逢ったのと違い、ここでの斉藤は明るかった。
「で、何て言われたんですか?」
お茶を啜りながら斉藤は真由美に聞いた。真由美は答えに困った。
「色々言われたので、何からお答えすれば良いのか判りませんが……」
色々と言われて、斉藤は頷きながら、自分が増田にぶつけた言葉を思い出していた。
増田は才能あるピアニストではあるが、何せ打たれ弱い。それは良くない。それに、自分を慕って付いて来るのは嬉しいが、後輩を育てる努力も必要だ。例えそれが『誰で』あっても。
悩む真由美を、斉藤は指差しながらもう一度聞いた。
「じゃぁ、一番コノヤロウと思ったことで、良いですよ」
斉藤はまた一口お茶を飲むと、口の中でお茶をクチュクチュする。真由美は首を少し捻って、一番ムカついた言葉を思い出した。
「『貴方のピアノは飽きる』と、言われました」
斉藤は、それを聞いてお茶をブッと吹いた。慌ててハンカチで口元を拭く。
「そんなこと言いましたか」
真由美は頷いて、他にも言われたことを思い出す。
「『ひゃくおくあげるから、ピアノを弾くのを辞めろ』とか、言われました」
斉藤はそれを聞いて、目を細め、膝をパンパンと叩いて笑う。
「あいつ、言う様になったなぁ」
懐かしい言葉だ。
その時の、増田の情けない顔。目に浮かぶよ。




