謎の調律師(三)
ところが、約束の日時になっても調律師は来なかった。会社に電話をすると、急に具合が悪くなったとのことで、同じ技量をもつ代わりの人が伺うと、電話の向こうの人が言った。真由美はがっかりして、声の主が誰なのか判らなかった。
真由美は調律を断ろうかと思ったが、その時玄関のチャイムが鳴った。代わりの調律師が来たようだ。真由美は礼を言って受話器を放り投げると、玄関へ向かった。
ドアを開けると、火傷の男と年齢は同じくらいだが、似ても似つかない男が立っていた。
「こんにちは。遅くなりまして申し訳ありません」
「お待ちしていました。よろしくお願いします」
「では、早速作業に入らせて頂きます」
調律師はまず侘びを言い、そして速やかに作業に掛かった。気さくな調律師だった。真由美はポーンと鳴るピアノの横に座ると、左手に火傷のある男について聞いてみた。
「あぁ、斉藤さんですね。あの人は良い調律師ですよ」
「斉藤さんと言うんですか」
一つ謎が解けた。気さくな調律師は斉藤について語った。
「はい。以前ピアニストを目指していたそうですが、左手を火傷してから諦めたと言っていました」
「そうなんですか。結構重症だったんですか?」
すると気さくな調律師は、首をくりっと九十度曲げると、斉藤との会話を思い出している様だった。
「いや、趣味で弾く位なら良いのでしょうけど、プロとなるとどうなんでしょうね。その辺は本人にしか判りませんね」
「そうですか」
それはそうだ。ピアニストなら、手は一番大切にするだろう。
「それに、夢破れた過去の話は、聞き辛いので」
「そうですよね」
真由美もそう思って、自分の手を眺めた。調律師はピアノの中を覗き込みながら、真由美に質問する。話題を変えたかったのだろう。
「これ、お嬢さんのピアノですか?」
「はい。そうです。あ、母も弾きますけど」
「そうなんですか。音楽一家なんですねぇ。羨ましい。うちの子にもピアノ習わせたいんですけど、嫌がってねぇ」
それを聞いて、真由美はくすっと笑った。
「私は母に鍛えられましたので、他の先生のことは存じ上げませんが、結構厳しいですものね」
それを聞いた調律師は微笑んで真由美の方を向いた。
「お母さん、ピアノの先生なのですか?」
調律師はポーンと鍵盤を叩きながら聞いた。真由美は少し微笑んで答えた。
「ええ。先生というか、一応プロなんですよ」
「えっ、そうなんですか!」
一度鍵盤の方を見た調律師だったが、振り向いて真由美の顔を見た。そして少し天井を見ながら考えた。
「新田、新田……、まさか、新田響子さん?」
次の鍵盤を押すはずの指を、真由美に向けて調律師は質問をした。
「そうです。私の母です」
それを聞いた調律師は、フォルテで言う。
「そうですかー。そりゃエライ家に来ちゃいましたね。へー、新田さんの練習用ピアノかー、道理で鉛入ってるんですねぇ。凄く重いです」
「コンサート用ピアノが、凄く軽く感じますよ」
真由美は笑った。『コンサート』と付けて、真由美はさり気なく自分もプロであるとアピールしたが、調律師には届かなかった様だ。
「斉藤さん、損したなー。新田さん家って判ったら、チョットぐらい具合が悪くても、やれば良かったのに」
調律師は仰け反って真由美の方に振り返って笑った。その様子を見て、真由美は自分の母親の凄さを実感したのではあるが、やや不満も残った。
その後も調律師は陽気に話をしながら、小一時間で調律を終えた。後から思えば、別に付き合う必要は無かったのかもしれない。真由美はこの調律師に期待することは何もなかったからだ。調律師は仕事を終えた後、ピアノを弾くことは無かった。
「お母さんによろしくお伝え下さい」
最後にそう言い残し、何度も頭を下げた。笑顔で名刺を置いて帰って行ったが、真由美は大いに不満だった。
「私もプロなのよ?」
扉が閉まってから、口を尖がらせて発したその言葉を、誰も聞く人はいない。