嵐の予感(十五)
「今日のマスターは、彼女と喧嘩したから機嫌が悪かった。だからそれを表現するために、この曲を選んで、この時代の、この戦争の、この場面を選んで、激しく演奏したんだ。とかね」
そう言って祐次は笑った。増田と真由美は黙っている。
「ここのフォルテは、怒りが最高点に達した。まるで、バズーカー砲を空に向かって撃ち上げたようだ。いや、それ意味ないだろう。とかね」
祐次はバズカーを撃つ仕草をした。そして、真由美の方を見る。
「だから、貴方の演奏は、詰まらなかったと思いますよ。だって、貴方の演奏は、別に貴方でなくても良いんでしょう? 他の誰かが弾いても、同じなんでしょう? 楽譜通りで良ければ、CDでも良いし。百年以上同じ曲を弾いてるんですから、貴方でなくても誰か弾くだろうし、これからも、誰かが弾くだろうし、別に貴方でなくても良いんですよ。そう思いませんか?」
真由美は頷いた。
「貴方の演奏は飽きるんですよ。きっと。多分。絶対」
また言われて、真由美は唇をかみ締める。
その様子を見て、祐次が真由美に質問する。
「今の落ち込み具合を言葉に表すと、何種類位になりますか?」
祐次は笑ってピアノに向き直ると、エリーゼのためにを弾き始める。増田も真由美も黙って聴いた。やさしい感じがした。言葉の贈り物という感じでもあったし、応援歌の様な気がした。真由美はどうしたら良いか判らなかったが、何か掴んだ気がした。
一曲だけ弾いて、祐次は帰った。増田はホッとした。
いや、帰ったのにホッとしたのではない。帰りがけに祐次はもう一つ、最後の質問をした。
その質問に増田は、祐次の期待した答えを出せたと、思ったからだった。
「では、最後の質問です。貴方は地球を脱出する、ロケットの船長です。今、ピアノを乗せるか、人を乗せるか迷っています。ピアノではなく、人を乗せれば三人乗れるとします。貴方は、どちらを選びますか?」
この問いに、真由美はノータイムで「人を三人乗せる」と答えた。祐次はにっこり笑って「マスターは?」と聞いて来たのだ。
増田は慌てて答える。
「私が降りて、人を四人乗せます。私はピアノと共に、地球に残ります」
すると祐次が、今日一番の笑顔を見せた。
「マスターも、ピアノに名前、付けるんですね」
そう言いながら、祐次は店を出て行った。閉じた扉のカウベルが、やけに長く、カランコロンと鳴っている。増田は一つ、祐次に聞きたいことがあったのだが、それを聞きそびれてしまった。
祐次がSlowtimeでコーヒーを飲んだのは、この日が最後になった。




