嵐の予感(十二)
「何を言ってるんですか。私は小さい頃からピアノ一筋で育ちました。私はこれからも、ピアノで生きて行くんです。一億円くらい、稼いで見せますわ」
真由美は胸を張ってキッパリと答えた。今はスランプなのだ。この暗いトンネルを抜ければ、きっと一億円くらい稼げる。
私は、新田真由美なのだ。
増田は真由美の態度を見て、祐次はもう諦めるだろうと思った。しかし財布を見つけた祐次は、それを持って振り返る。黒いスヌーピーの財布で、あんまり、入って、なさそう? なのだが。
「どうしてもダメですか? 貴方にピアノを弾く資格はありませんよ。同じピアニストとして見られるのは嫌です。お願いですから、もうピアノを弾くの、止めてください。そうだ。じゃぁ、ひゃくおくあげましょう。これで如何ですか?」
祐次は左手で財布を開けた。
それを見た真由美は激怒して、イスから立ち上がった。そして右手を降り、髪を揺らしながら祐次に言い放つ。
「払えるんですか? 百億円? 払えるんですね?」
百億円なんて大金、テレビのニュースでしか聞いたことがない。真由美の心には、いくら大金を積まれてもピアノを止める気持ちはなかった。
しかし、目の前の男が百億円払うと言うのなら、それを目の前に積んで見ろ! と、言いたかったのだ。
祐次はにっこり笑うと財布を置き、電話のメモを一枚取った。そして、そこに汚い字で『ひゃくおく』と書くと、真由美の前にスッと投げた。真由美はそれを受け取る。
「なんですかこれは! ふざけないで下さい!」
その紙を丸めると、祐次に向かって投げ付ける。紙はにやにやする祐次の顔に当たって、床に落ちた。
祐次はそれを拾うと、それを広げ、真由美に見せる。
「私は別に『円』とも『ドル』とも言ってません。貴方が勝手に勘違いしたのでしょう? 貴方の価値はこれぐらい。この紙切れ一枚の価値だと、言っているんですよ」
祐次は広げた紙を指差しながら、真由美に話す。真由美は怒りの余り、口をモゴモゴさせていたが、何も言い返せなかった。
それを見て祐次は、またメモを一枚取ると、真由美にスッと投げた。それはカウンターを流れて行き、真由美の手前でピタリと止まった。祐次は言う。
「そこに、貴方の今の気持ちを書いて下さい。もし怒っているのだとしたら、そこに『怒り』を表す単語を並べてください。さあ、どうぞ」
真由美はメモに鉛筆で書きなぐった。『怒り・怒る・むかつく・腹立つ・超むかつく』そして、祐次に投げ返す。
祐次はそれを見て、大声で笑い出す。
「貴方、怒りのバリエーションって、五つしかないんですか? じゃぁ喜びのバリエーションは幾つですか? 悲しみは幾つありますか?」
真由美はもっと一杯あると思っていたが、言葉にならない。イライラしていたからだろう。頭に血が上って、冷静じゃなかったからだろう。怒りを表す言葉? もっとある。あるはずだ。でも今、そんなことは、考えられない。
「そんなバリエーションしかないのに、ピアノを弾いた所で、直ぐに飽きられてしまいますよ?」
笑いながら祐次に言われて、真由美はハッとなった。頭に昇った血が、一気に引いていくのが判った。冷静になるにつれて、頭の中を思考が巡り始める。
飽きられる? 私が? そんな筈はない。そんな馬鹿なことはない。私のファンなら。ファンだったら。
今までのことが浮かんでは消え、真由美の頭の中をグルグル回っていた。
「貴方、本当にプロなんですか? プロならプロらしく、自分を認めることも必要ですよ。貴方はプロではない。ピアニストでもない。ちょっと指が、器用に動く人です」
祐次の言い方に、増田は心当たりがある。しかし、そんな筈はないと、直ぐに打ち消した。




