嵐の予感(九)
そこは、Slowtime常連なら誰でも知っている『失恋者のテーブル』である。
この席は、イスの足が三本しかなく、不安定極まりない。しかしそれが逆に、長居するには丁度良く、ここでぼんやりと時を過ごすのが、失恋者には堪らない魅力、なのだ。
Slowtimeに来てから日の浅い、と言っても、店員として毎日来ているのだが、そんな話は知らない真由美は、言われるがままに座った。またしても、良く判らない祐次の指示に、真由美は混乱する。
祐次は黒いネクタイを外し、上着を席に置くと、窓際の席に座っているカップルに、笑顔で声を掛けた。
「お客様、お楽しみの所申し訳ございません。少々簡単なお願いを聞いて頂けませんか?」
「はい? 何でしょう?」
男性客の方が祐次に答えた。祐次はにっこり笑い、カメラを二人に見せながら言う。
「はい。撮影をしたいので、お二人に席を入れ替わって欲しいのです。そして、窓際の席に座って頂けますか?」
両手を一度クロスさせて元の位置に戻すと、両手で四人掛けテーブルの窓際を指した。カップルは不思議そうに祐次を見る。祐次は笑顔を見せると、テーブルに置いてある伝票を持ち上げた。
「お聞き頂ければ、この伝票は、私の方でお預かり致します」
「もしゅ!」
女性客の方が声をあげた。二人は笑顔で席を入れ替わると、窓際に座った。そこで祐次は、頭を下げる。
「ありがとうございます。ついでと言っては難ですが、撮影の際、ポーズを取って頂けますか?」
「こうですか!」
そう言って二人は、祐次に向かってピースサインを出した。
祐次は笑いながら、一枚撮影した。そして、カメラの画面を二人に見せながら、話を続ける。
「今のお顔も素晴らしいのですが、私が外へ出て、あの辺から撮影しますので、彼女さんの方は、そうですね。このミルク入れをちょっと持って頂いて」
祐次は、白いミルク入れを女性客に持たせる。ミルクは、もう入っていなかった。
女性客は、不思議そうな顔をする。
「これを、大事なものだと、思ってください。彼氏さんから渡された、そう。指輪です。貴方は今『指輪のケース』を貰いました」
彼女は彼氏の方を見て、目を光らせた。祐次は言葉を続ける。
「大好きな彼氏さんから指輪の箱を出されて、それを受け取りました。貴方は、これを開けます。まだ開けちゃダメですよ? 私が向こうに行って、カメラを構えたら開けてください。よろしいですか?」
「もしゅ!」
そう言って彼女はにやっと笑い、彼氏の方を見る。彼氏は笑った。
「では、背筋を伸ばし、膝を閉じ、肘を体に付けて、手の指はきちんと揃えて、そうそう。肘をテーブルに付けてはダメです。両手でそっと開ける感じで。顔の前に持って行っちゃ、ダメですよ」
祐次の指導に、彼女の方はうんうんと頷く。
祐次は振り返ると、増田に指示した。
「マスター。ネクタイ直して。それと、いつもの場所。そうそこ。そこでコーヒー淹れて。そのポットでいいです。右手で高く上げて淹れて下さい。そうそう。気取った感じね」
全員に指示をすると、祐次は店の外に出た。そして、入り口のOPENの看板を真っ直ぐに直すと、花壇の方へ小走りに行く。
そして、カメラを構えた。
女性客は、ミルク入れを見ながら、とびっきりの笑顔を見せた。
祐次は店に戻ってくると、撮影した画像をモデルの二人に見せる。花壇に花が咲き乱れ、その奥にある窓の、更に奥。彼氏の後姿と、彼女が指輪を貰った笑顔がある。隅っこには、それを眺めている真由美の後姿があった。
「如何ですか? 店のポスターにしてもよろしいですか?」
「どうぞ! どうぞ!」
「イエーイ。モデルデビューよ!」
笑顔の二人に祐次は会釈すると、伝票を預かった。そして、カウンターに戻って来る。
真由美も戻って来た。そして、写真を見た。確かに、真由美が撮った花壇の写真よりは、良い出来だった。
「マスター、これ、買取よろしくね」
祐次は笑いながら、伝票とカメラを『セット』にして返す。
「判りました。上手く撮れましたねぇ。早速使わせて貰います」
増田は思いがけずポスター写真を手に入れた。
今朝雨の中、花壇を掃除して置いて、良かったと思った。
「じゃぁ、キャッチコピーは、『うれしい時も、悲しい時も、Slowtimeで美味しいひと時を。とびきりのコーヒーを淹れてお待ちしております』これでどうでしょう」
「良いですね。それもいただき」
増田は普通のキャッチだと思ったが、勢いで頂くことにする。
「じゃぁ、これもよろしくね」
そう言って祐次は、自分の伝票を差し出した。
「上手いなぁ」
増田は笑いながら、それを受け取った。




