嵐の予感(六)
それから暫く経った、梅雨時のある日。
雨の中を、黒服を着た祐次が、Slowtimeに駆け込んで来た。最近の梅雨は『シトシト』ではなく雷雨。香港か、ジャマイカ辺りでよく見る『スコール』の様だ。
祐次はハンカチを取り出し、頭の水滴を拭いながら外を見た。激しい雨の中、雲の切れ間から、太陽が覗いている。あの光が広がれば夏が来る。
祐次は、外に飛び出すタイミングを、見誤った気がした。
増田は予想外な客に、急いでコーヒーを淹れ、それをカウンターの端に置く。祐次はそこに座った。
「今度は、法事に呼んで貰えましてね」
コーヒーに口を付けながら、嬉しそうに言った。
そう言えば、さっき早苗も返って来た所なので、祐次の来店は予想できたはずだった。
「そうですか。よかったですねぇ」
増田は春香の写真を見ながら、笑顔で答えた。振り返ると、さっきまで激しく降っていた雨が、嘘の様に止んでいる。
「雨、止みましたね」
「あらら、本当だ」
増田に言われて祐次が外を見る。やはり、もう少し待てば良かったのだ。
梅雨が終わって夏が来る。そうしたら、高山植物が咲き誇る季節だ。窓の外で広がっていく青い空を見ながら、祐次は、晴れ晴れとした気持ちでいた。
「すみません。こちら、よろしいですか?」
知らない女が、祐次の視界に入る。
祐次は昔、二人から同時に『結婚してくれ』と、涙ながらにお願いされたことがある。それを除けば、女性にモテたことはない、平凡な男だ。
どちらかと言うと、混んでいる特急列車の自由席で、空いている隣に、座ろうとする人が、少ない。位だ。
そんな祐次の隣を、真由美が指差していた。
祐次はにこやかに首を横に振ると、カウンターの向こう側を指す。客の疎らな店内。別に隣に座る必要はないし、祐次にとって隣の席は、特別だった。
増田が、アイスコーヒーを淹れてカウンターに置き、そこに座るように、真由美に目で合図する。
「あの、少しお聞きしたいのですが、よろしいですか?」
カウンターに腰掛けた真由美が、祐次に話しかけた。祐次はコーヒーを飲みながら、自分を指差す。
「私ですか?」
「はい。そうです」
真由美は頷く。
祐次には、全く聞かれる理由が判らない。
黒服を着ている理由は法事です。
ちょっと暑いです。
他に何を聞くのか、祐次には思い浮かばない。
「失礼ですが、どちら様でしょう?」
祐次は、何か約束をしていたのかと思って聞いてみる。これからの予定を、変更せざるを得ないのか、確認する必要がある。
先約を断る『止むを得ない理由』であったとしたら、それは重大である。しかし、昔からそれは二つしか認められていない。
一つは、親の葬式。
もう一つは、彼女とのデートだ。
先輩の教えは、とても厳しい。
「私、新田真由美と申します」
「うちで、ピアノの練習をしているんですよ」
増田が祐次に補足説明した。祐次はにっこり笑った。そして、止むを得ない理由には該当しないと、判断する。
「一応プロなんですけど」
真由美が言うと、祐次の顔が曇る。増田は、余計なことを言ったなと、思った。
「プロの方が、私に、何の御用でしょう?」
祐次の言い方を聞いて、増田は、もう口を出すのを止めた。




