謎の調律師(二)
数日後の同じ場所で、真由美はスポットライトの中、本当の喝采を浴びていた。一度袖に入ってもまだ鳴り止まぬ拍手。もう一度舞台に戻ると、拍手が一層大きくなった。さっきまで寝ていた人も、この嵐の様な拍手で起きる。帰る人は余りいない。真由美はアンコールに応えて二曲弾き、初めてのコンサートを無事終えた。
「良かったわよ」
母親の響子は花束で真由美を祝った。真由美との約束で舞台には立たぬことになっていたが、派手な衣装で舞台袖にいる。
「ありがとう。お母さま。これで私もお母さまのライバルよ」
真由美は花束を受け取って、そのまま響子に抱きついた。響子も幸せそうに若いライバルを抱きしめる。
「ふふっ。まだまだ貴方には負けなくてよ?」
真由美の耳元で響子は囁いた。遂にこの日が来た。自分だってまだまだ活躍できると自信を持っていたが、真由美が自分を追い越して行くことを願っていた。
響子は真由美と同様、デビューした年はコンクールで優勝したのだが、それ以降は連続して二位だった。どこのコンクールに出ても最高で二位。まるで、呪われているのではないか、とさえ思ったこともある。響子はわが子のプロデビューを暖かく見守り、そして、次も必ず勝てる様に願いを込めた。
母親の強い抱擁を笑顔で振り切ると、真由美は控え室に篭り、ため息を吐いた。アンコールで弾いたエリーゼは、納得の行くものではなかった。観客からは盛大な拍手を貰ったが、真由美の耳には届いていなかったのだ。
「違う。あんな音じゃない」
天井を見つめて真由美は呟いた。
もう一度聞きたくなった。あの男の演奏を。しかし何処の誰だか判らない調律師を探し出すのは、少し面倒に思える。それでも真由美は、ホールの支配人に聞いてみることを思い付き、調律師が勤める会社だけは聞きだした。
「何をしているの? 帰るわよ」
響子が支配人と話している真由美に、声を掛けた。真由美は支配人にペコリと頭を下げると、母の許へ小走りに来る。
「どうしたの? 何かあったの?」
「ううん。何でもないの」
真由美は心配そうに見つめる母の顔をちらっと見ると、そのまま澄ました顔ですれ違った。
「何でもないじゃないでしょう。ピアノのトラブル? 良いのよ。そういうことはジャンジャン言って」
「そんなことはないわ」
響子が真由美の後姿に振り返りながら忠告したが、真由美は振り返りもせず、右手を上げて軽く振った。
「そう。じゃぁいいわ」
響子はあっさりと引き下がると、自分もクルリと向きを変えて歩き始める。響子の足音を聞いて、真由美は足を止めた。そして響子が真由美に追いつくと先を譲り、その後に付いて真由美はホールを後にした。
歩きながら真由美は考えていた。プロと言えど、自分の演奏に毎回納得行く訳ではない。そう自分に言い聞かせた。それよりも何よりも、蝉が奏でる不協和音が、真由美には堪らなかった。
翌日、午後からの雨に備えて折りたたみの傘を持ち、教えて貰った会社に真由美は行って見る。そこは、ピアノ店の二階にある小さな会社だった。深呼吸をしてノックをすると、思い切って扉を開ける。入ったところにカウンターがあったので、そこまで歩み出ると、奥の机でテレビを見ていた老人が、受付にゆっくりと歩いてきた。
「すみません。ピアノ売り場は一階ですよ」
小娘が何しき来た。そう言わんばかりに老人が言う。とても事務的な説明だ。そう言われて真由美は、慌てて手を横に振った。
「違います。ちょっとお尋ねしたいことがありまして」
真由美は用件を直ぐに切り出そうとしたが、老人はマイペースで話し始める。
「うちは下のピアノ店と専属契約している会社でして、今、調律師は全員出払っております。ご予約ですか? トラブルですか?」
カウンターの下から申し込み用紙を探し始めた老人に、右手を横に振りながら真由美は声を掛ける。
「いえ、あの、八日前に駅前のホールにあるピアノを調律した方を探しているのですが、教えて頂けませんでしょうか」
老人は申し込み用紙を探す手を止め、ピッと起き上がった。まるで軍人だ。気をつけの姿勢になって真由美に顔を向けた。
「何か問題がありましたか? 苦情はこちらで受け付けます」
「いえいえ、苦情だなんて」
突然の豹変ぶりに、真由美はたじろいだ。やっぱり右手を横に振って答えていた。老人には意味が判らなかった。
「では、どの様なご用件でしょう?」
「あのー、実は、ご本人に伺いたいことがありまして、それで伺ったんです」
「調律のことですか?」
「いえ、調律ではなくて、演奏の方なんですが」
何だという表情を老人が見せた。真由美は話が通じたと思った。しかし、老人の口からは意外な言葉が返ってきた。
「演奏? 演奏なら下のピアノ店で受け付けていますよ」
そう言うと老人は、カウンターの下から申し込み用紙を出した。真由美はもうダメだと思った。
「あ、ありがとうございます」
真由美はそれを受け取ると、会社を後にした。プロのピアニストとしてはまだ若すぎたのか、一般人の様な扱いをされた。どうしようか。仕方ない。真由美は店内をうろうろしながら奥の階段の方を気にしていたが、誰も通らなかった。
やがて雨粒がショーウィンドウに模様を作り始める。真由美はバックから傘を取り出すと、激しくならない内に帰ることにした。
それから暫くの間、会社の前をうろうろしていたが、見つからなかった。次のコンサートがあって、リハーサルに早く行ったときもいなかった。
「当たり前よね」
一人ピアノの前で呟く。誰もいないホールで、あの調律師は誰に向かって演奏していたのだろう。あの男には、何が見えていたのだろう。仰々しく右手を振って挨拶をする姿を思い出した。あんな大げさな挨拶を実際のステージで見たことはない。
そこで真由美は思い出した。左手の火傷の跡を。
「御指名で呼べば良かったんだわ」
何でそんなことに気が付かなかったのだろう。早速真由美は、自宅のピアノを調律して貰うために電話をした。
声の様子だと、あの老人に違いない。しかし今度は調律の依頼である。それなら話は通じるはずだ。案の定、左手に火傷のある調律師を指名した所、老人にも判った様だ。スケジュールを確認すると、その日は空いているとのことだった。
「よろしくお願いします」
「判りました。毎度ありがとうございます」
真由美は受話器をそっと置いた。名前を聞き忘れたが、あまり気にしていなかった。