嵐の予感(五)
「エイプリールフールだから?」
笑いながら真由美が増田に聞く。
どこが嘘なのかは言わなかったが、ピアノを習っていたこともなく、家にピアノもなく、あれだけ弾けるはずがない。と、思ったからだ。
「いや、あの人、嘘付かない人なんだ……」
増田の方がビックリしている様なので、真由美は、もう聞くのを止めた。エリーゼくらいなら、誰でも弾けるわよね。と、思うことにする。
頭の片隅には二年前、斉藤が弾いたエリーゼを越えられなかったことを思い出してはいたが、それは、斉藤が天才ピアニストであった、ということで、一件落着したのだ。
それよりも、真由美には不思議なことがあった。
「やさしそうな人でしたねぇ」
その言葉に、増田は真由美をちらっと見た。
「そうだねぇ」
食器を片付けながら増田は答える。やさしそうじゃない。やさしいんだと、思いながら。
「ちょっとコツを教えて貰おうかしら」
真由美は、冗談とも本気とも取れる発言をした。それを聞いて、増田は手を止めると、慌てて言う。
「いや、あの人に教わるのは、止めた方が良い」
何のコツか、真由美は何も言っていない。しかし、きっぱりと言われて、真由美は余計、不思議に思った。
「あら、やさしそうな人なのに、どうしてですか?」
増田はコーヒーカップを洗う手を止め、真由美の方を向く。
「いや、とにかく止めた方が良い。あの人に聞くのはヤバイ。絶対まずい。私には判る。あの人からは、危険なオーラを感じる」
増田には、祐次の心の奥底に潜む『悪魔』でも見えたのだろうか。真由美に忠告した。しかし真由美は、カウンターでのやり取りを、聞いていたのだ。
「酷い言い方ですねぇ。結構古い、お馴染みさんなんでしょう?」
「そう。ちょっと前、近所に住んでいてね。結構来てくれていたんですよ。その時、色々話をしたんですけど、あの人、変わってるんだぁ。うん。何かね」
「変な人なんですか?」
その問いに、増田は洗い物をしながら首を横に振る。
「いや、そういう意味じゃなくて、目の付け所が違うというか、話は面白いと思うんですよ。でも、んー」
最後に「んー」と付けて黙ったとき、次に衝撃的な言葉が並ぶのが増田流だ。それは真由美には判っていた。
それは、相手を傷つけないように、言葉を選んでいるのだろうが、結果としては、余り役には立っていないのだ。
増田はやはりそこで言葉を区切り、水道を出しっ放しにしたまま手を止めている。そして、言った。
「はっきり言うと、貴方、ボロボロに言われますよ? きっと。多分。うん。絶対」
幾つか予想していた言葉とは、違う答えが返って来た。それは自分の予想を越えている。
そこまで言われて真由美は、敵対心が燃え上がった。
何しろプロである自分の演奏を途中で放棄し、父親とは言え、難易度の低い曲、いや大して変わりはしないが、それしか弾けない者を選んだ、基準が判らない。
子供が相手とは言え、妙にプライドが傷つけられる。
そんな真由美の心中とは関係なく、増田は真由美に言った。
「あの人ね、エリーゼのためにしか、弾けないんだって」
「えっ、本当ですか?」
その話には、真由美の方が驚いた。それだけ聞いて、増田が『変わっている』と言う理由が、判る様な気がしてきた。
「もう一度お会いして、お話を聞いてみたいですね」
増田は、また首を横に振る。
「止めた方が良いと思いますよ。それに、次に来るのは、多分七月頃ですから」
今は毎日来ていないとは言え、なぜに七月なのか。
真由美には判らない。
結局その日は、夕方まで客が来なかった。しかし真由美は、休憩を貰って花見見物に出掛けていたので、正確な所は不明である。




