嵐の予感(四)
美紀は増田の方を見て、呆れた顔をする。増田に、その意味が判らなかった。同じ曲を二回位聞くことなんて、良くあることだ。自分で練習をしていれば二回どころではないだろう。
二回目を弾き終わると、春香はもっと盛大に拍手をした。そしてさっきより、もっと元気に言う。
「もっかい!」
「ほいきた合点!」
しかし祐次は、今度は暗く、怖く弾いた。そして目を細め、怖い顔をして春香を睨んだ。春香は「キャー怖いー」と言って両手で顔を隠し、足をバタバタさせた。
「お、またアンコールですね」
子供のリクエストとは言え、三回は多いかなと思い、笑いながら増田は美紀に声を掛けた。
「いつものことですから」
美紀は、ちょっとうんざりした感じで、増田に答えた。増田はそれを聞いて、美紀のうんざり感が判った。
ピアノは良く『近所迷惑』だと言われるが、一番迷惑するのは家族である。壁越しに聞くのと違ってダイレクトに聞こえるし、イラつく本人の愚痴や、溜息まで聞こえてくる。
それに同じ曲を何度も聞かされる。まぁ、興味のない人にしてみれば苦行以外の何物でもないだろう。
増田は「へー」と答えて、祐次が家でもピアノを練習しているのだろうと思ったし、きっと昔から、そうだったのだろうと思った。
やがて三度目の『エリーゼのために』は、中間部を迎えた。そこを通常では有りえない位の勢いで弾き、最後は大音量で締めくくった。これだけ大きな音を出したら、家族も迷惑するだろう。
「もっかい! もっかい!」
「えー。じゃぁリクエストに応えてもう一度」
祐次はそう言うと丁寧に弾き始めたが、最初のフレーズから最後の数小節に強制ジャンプし、十秒程で終了した。
「はい。おしまい」
祐次がそう言うと、春香はスタンディングオーベーションで応え、盛大に拍手をする。そして、祐次に走り寄って足に抱き付いた。
「花束は?」
「ない!」
「えー」
やや不満そうに祐次が応えたが、春香を抱き上げると言う。
「じゃぁ、この鼻貰おう」
そう言って春香の鼻を摘むと、春香はバタバタと暴れた。
笑いながら、祐次と春香がカウンターに戻ってくる。そしてポンと椅子に春香を置いて、自分は立ったままコーヒーを飲んだ。増田は祐次に話し掛ける。
「お上手ですねぇ。知りませんでしたよ」
祐次はコーヒーを飲みながら左手を左右に振った。
「他に、何弾けるんですか?」
増田の問いに祐次の左手は止まらなかった。増田は、コーヒーが祐次の口から、咽に落ちていくのを待った。
「いや、『エリーゼのために』だけです。そう何曲も弾けないですよ。プロじゃないんで」
にやっと笑って祐次は増田を見た。そして、あー疲れた。という感じで春香とじゃれあい始める。
増田は、結構どころの騒ぎではない位、弾き込んでいると思った。エリーゼのためにだけ聞けば、素人とは思えない出来だった。
「昔習っていたんですか?」
増田が聞くと、祐次はサイフからお金を出しながら答える。
「いや、全然」
「えっ?」
増田は驚く。大人になってからだろうか。増田の中で、幾つかのピアノ教習コースが頭をよぎる。
「だって、家にはピアノがなかったですから」
「えっ」
増田は再びそう言って驚いた。しかし、祐次がお金を渡してきたので、次の言葉が掛けられなかった。
「よーし、それじゃー、動物園行こうかー」
サイフをしまいながら春香に声を掛ける祐次に、増田は「ありがとうございました」としか声を掛けられなかった。
祐次から得られた情報は少なすぎたが、ここでピアノを弾かなかった理由が、何となく判った気がした。
祐次と美紀が春香の手をとって、増田に手を振った。ふと気が付いて真由美にも手を振ったが、真由美は考え事をしている様だった。気が付いて扉の方へ歩み寄ると、『自動』とステッカーの貼られた扉を手で押さえる。
「ありがとうございましたー」
もう一度声を掛けると、仲良し親子は、駐車場のMINIへ歩いて行った。




