嵐の予感(三)
いつ頃から鳴り始めたのか、増田と美紀が話している向こうでは、子犬のワルツが、軽快なリズムを刻んでいた。
その時、入り口のカウベルが、再び揺れる。
「ちわー」
「いらっしゃーい」
出入り業者の様な挨拶で、祐次が店に入ってきた。CLOSEの看板など、見ていないかの様だ。マスターは、カウンターの一番端にコーヒーを置いた。そこへ祐次が座ろうとすると、奥から春香が半べそで走ってきた。
「パパー」
春香が祐次に飛び掛った。祐次は椅子に座ると、カウンターに右肘を着けて支え、左腕で春香を抱き上げる。そして、膝の上に乗せると、コーヒーを一口飲んだ。
「春香、ピアノ弾いて貰っていたのか。いいなぁ」
コーヒーカップを置くと、祐次はにっこり笑って、春香の頭をやさしく撫でた。すると、春香は首を横に振って答える。
「パパー、エイージェのためにしいてー」
まだ子犬のワルツが響いていたが、子供はそんなこと、お構いなしである。気遣いとか遠慮というものを知らない。
祐次は子供っぽい所もあったが、一応大人である。その辺は心得ていた。
「おぅ。いいぞぅ。誰が弾いてるんだ? 上手だねぇ。一曲終わったら、替わってもらおうねぇ」
祐次はやさしく春香に言うと、奥の方を覗き込んだ。子犬のワルツは短い曲だから、直ぐに終わる。祐次はまた一口コーヒーを飲み、左手で春香を抱えたまま席を立つと、ピアノの方へ行った。
その様子を、増田はポカーンと見ていた。
「ピアノ、弾かれるんですか?」
「ええ。そうなんですよ。意外でしょ?」
祐次の後姿を指差して言う増田に、美紀は笑った。増田はうんうんと頷く。
「結構うちに来て頂いていますが、ピアノ弾かれたこと、なかったので。へぇぇ」
「そうでしょうねぇ」
増田の答えに美紀はそう答えると、もっと笑った。増田は釣られてくすっと笑ったが、何故にここでピアノを弾かないのか、その理由が判らなかった。
奥からは、真由美と祐次が交代の挨拶をする声が聞こえて来る。増田はその理由を確かめるべく、美紀と話をしながらも、カウンターの中から耳を澄ませていた。
祐次は、その辺のテーブル席から椅子を拝借すると、ピアノの傍に置き、そこに春香を座らせた。そして、ピアノの前に立つと右手を大きく振りかぶり、自分の体の前を通して、左手奥まで振る。頭も深々と下げ、春香に丁寧に挨拶をした。
窓際まで下がって、その様子を見ていた真由美は微笑ましく思い、くすっと笑った。小さな子供に対しては、大げさすぎる挨拶であろう。
ピアノの前に腰掛けると『エリーゼのために』を静かに、そしてゆっくりと弾き始める。祐次が頭を左右に振ると、春香も頭を左右に振っている。
真由美が窓際で、にこにこして観ているので、増田はカウンターから出ると、首だけ出して、こっそり覗いた。
そこには緩やかに手を振りながらピアノを弾く、祐次の姿があった。増田は戻ってきて、美紀にそっと言う。
「お上手ですね」
「そうですか? 大したことないですよ」
母が、自宅でピアノの先生をやっていた美紀にとって、エリーゼは聞き飽きた、練習曲の様なものだ。入れ替わり立ち代わり子供達がやってきて、エリーゼエリーゼ今日もエリーゼ、明日もエリーゼ明後日もエリーゼ、エリーゼエリーゼエリーゼ! 祐次と結婚して実家を出たので、最近はそうでもないので、良しとしよう。
増田は手を左右に振りながら、美紀の言葉を否定した。
「いやいや、綺麗な音ですねぇ」
「へぇー、そうですか」
末っ子の美紀は、兄や姉がピアノで苦悩しているのを見て、絶対弾きたいとは言わなかった。ピアノに興味が無さそうな美紀に、増田は祐次のことを聞いてみる。
「ピアノ、習っていたんですか?」
美紀は自分のことかと思ったが、増田の方を向くと右手が壁の向こうを指していたので、祐次のことだと思い直した。
「いえ、そういう訳じゃないそうですよ」
「へぇー。そうですか」
そうこうしている内に、演奏が終わった。春香が小さな手でパチパチと拍手をした。真由美も一応拍手をする。
「もっかい」
春香が右手の人差し指を立て、足をバタバタさせながら祐次に言った。
「いいよー」
祐次がそう答えると、今度は少し速く弾き始めた。春香の方を見ながら怖い顔をしたり、笑った顔をしたりすると、春香はキャッキャと喜んだ。
真由美もそれを見て微笑ましく思い、右手を口に当てて笑う。面白いお父さんだと思った。




