嵐の予感(二)
「いらっしゃーい」
真由美も慌てて席を立ち、会釈をした。Slowtimeでは店内にクラッシックを流している。しかし客が誰もいない時は、ラジオを流していた。増田も暇なのだろう。
増田の手元でリモコンが素早く操作され、ドアに掛けられたカウベルが静かになるころ、モーツァルトが流れ始めた。
入って来たのは女性だ。手を引く小さな女の子の母親だろう。真由美はテーブル席へ案内しようと思った。
増田の挨拶に、その女性はにっこりと笑って会釈した。それを見た増田は、カウンターの角に水を置く。真由美はその水を『テーブル席に持って行け』という合図なのかと思ったが、女性はそこへ腰掛けると、まだ小さい子供を、九十度周った反対の角に座らせる。
「はい。いらっしゃーい」
増田はさっきより一層にっこり笑って、女の子に挨拶した。
「ほら、春香、ご挨拶なさい」
美紀が言うと、チョビヒゲに興味を示しつつ、春香は元気良く挨拶をする。
「こんにちはっ」
「よくできましたねぇ。はいこれどうぞ」
増田は目を細めて、スペシャルトロピカルオレンジジュースを出した。
「ありがとー」
春香はまた元気良く礼を言うと、遠慮なく飲み始める。まだ手元が危うい。
「春香ちゃん幾つになったのかな?」
増田が二人に声を掛けた。
「春香、何歳だっけー?」
美紀が首を傾けながら春香に聞くと、春香は得意げに指を二本差し出し、手首を前に倒した。
「二歳なんだー」
それを見て、増田がにこにこして春香に声を掛けると、春香はスペトロオレジューを吸い込みながら首を横に振った。増田は、おやっと思った。
「二歳半です。少しサバ読んでます。うふふ」
美紀が代わって答えた。増田はよく判らなかったが、納得することにした。どの辺で六ヶ月を表現したのか。まぁ、子供だから省略したのだろう。
「紅茶下さい」
「はーい」
美紀がそう言った時、春香のスペジューはズズズを音を立てて空になった。美味しいものは真っ先に。良い性格だ。
「真由美さん、ピアノ弾いてあげて」
名残惜しそうに氷を突っ突く春香のコップを美紀が取上げたので、増田は言った。美紀も春香に声を掛ける。
「春香、お姉さんがピアノ弾いてくれるって。いってらっしゃい」
春香が振り向くと、真由美がにっこり笑って手を差し出した。春香はその手を掴んで、元気良く椅子を飛び降りると、真由美と一緒にピアノの方へ向かった。
「祐次さんはまだお墓ですか?」
「はい。もうちょっと話をして行くから、先行っててと言われました」
増田は頷いて遠い目をした。
「もう何年ですかねぇ」
「七年ですね」
そう言ってから七回忌は七年ではないと思ったが、難しいので計算するのを止めた。
「そんなになりますか。早いですねぇ」
増田は両手を腰にあて、カウンターに飾られた春香の写真を眺めた。増田の言葉を、美紀はゆっくりと首を振って否定する。
「でも、祐次さんと春香さんの時計は、凄く進むのが遅いんです」
「やっぱり、そうですかねぇ」
増田は美紀を見た。美紀は左手で頬杖を付き、春香の写真を眺めていた。
「ええ。だって一年と言っても、三日しかありませんから。滑落した日、お誕生日、命日。祐次さんの中では、まだ春香さんが亡くなってから、きっと一ヵ月も経ってないんですよ」
それは、少し嫉妬しているとも言える言葉だった。
「へぇー。そりゃ奥さんとしても、うかうかしてられませんねぇ」
そう言って増田は、紅茶を置きながら美紀を悪戯っぽい目で見た。美紀は頬杖を止めて姿勢を正し、軽く会釈をすると言う。
「いいんですよ。好きにさせて置けば。残りの三百六十二日は私の傍にいてくれるんですから」
「お、余裕の発言だ」
増田は首を後ろに反らしながら笑った。美紀は紅茶を一口飲み、ソーサーに置いて得意気に言った。
「私は結婚した妻ですからね! 私が死んだときは、命日、お盆、お彼岸二回。最低四回は来て貰いますから」
「お、一回多いですね?」
「はい。勿論です!」
美紀は右手で四を示して笑っていた。増田もそれを見て笑った。
「じゃぁその時、お墓はそこのお寺にしてください。うちの売り上げアップになりますから」
増田は店の裏の方を二度指差して言った。
「まぁ、商売上手ねー」




