謎の調律師(一)
最近の話題は北京オリンピックである。だから真由美の記事は小さい。だから真由美が松葉杖を突いていても、誰も気が付かない。だから車椅子に乗ってくればよかった。
色々関連付けて、真由美は歩いていた。その予想、殆どはハズレだ。真由美はうっかり左足を、ひねってしまったのだ。しかし、あまり気にもしていなかった。もう直りかけていたし、家では松葉杖なんて使っていなかった。今日、わざわざ出掛けて来たのは、コンサートのリハーサルがあるためだ。本番は一週間後に迫っていたし、前々からこの日と、決まっていたので仕方ない。
会場は駅から近いはずだが、松葉杖では遠く感じる。世間はオリンピックで沸いているが、真由美には冷たい。松葉杖くらいでは、誰も助けてくれない。真由美はやっぱり、車椅子にすれば良かったかしら、なんて思っていた。
そんなこともあろうかと、一時間も余裕を見てホールに到着すると、まだ調律中だった。真由美は舞台袖の椅子に腰掛けると、調律が終わるのを待つことにした。
背中を丸めて調律を行う男。舞台の袖は暗く、ステージは明るくなっているので、こちらには気が付かない。もうだいぶ高音の方まで行っている。もう直ぐ終わるだろう。機械的な、とても退屈な音だけが響いていた。ステージは本番の様に輝いていたが、この様子を観客が見たら、全員寝てしまいそうだ。真由美も眠くなってきた。
調律師は、最後の調整に入った。和音を鳴らして音を確認しているが、もう直す様子はない。真由美はふと時計を見た。四十分前。まだ時間があった。男も時計を見ると、同じ様にまだ時間があると思った様だ。足元の鞄に道具を片付けると、再びピアノの前に座った。真由美は「おっ」と思った。
調律師は、ピアニストを目指していた人が多い。夢破れて調律師になるケースもあるが、しかし、調律師になるのも、また狭き門である。
男はピアノに向かうと『エリーゼのために』を弾き始めた。この曲自体は難しい曲ではなく、普通の小学生でも十分演奏出来る。しかし、男が弾き始めたエリーゼは、真由美の知っているものではなかった。暗く、まるで鬱の様に弾き、中間部は極端に速かった。それでも最後は力強くまとめ、三分程の短い演奏は終わった。
光り輝くステージの上で、華麗に両手を上に上げた。そして、ゆっくりと、なめらかに音が消えていくのを待って、男は立ち上がる。誰も居ない観客席へ向って深深と一礼をすると、ゆっくりと上体を起こして再び観客席を見た。まるで、盛大な拍手を受けている様な堂々とした態度だった。しかし、ポンと何かスイッチが切り替わると、両肩を落とし、少し猫背になって足元の鞄を持つと、舞台の袖に来た。
真由美は立ち上がって拍手で出迎えた。
「お上手ですね」
にっこり笑って真由美が声を掛けると、男はびっくりしている。どうやら誰もいないと思っていた様だ。今の男は、少し前の堂々とした表情なんて、微塵も感じられない。
「ホールのピアノは久しぶりだったので、ちょっと弾いてみました。すいません」
何度も頭を振り、照れ臭そうに掻きながらそう言って謝った。苦笑いから、真由美の存在は予想外の出来事であったには違いない。
「いえいえ。まだ時間ありますし、それに私は、ホールの人間ではありません」
真由美がそう答えると、少しホッとした様だった。男は頭を掻くのを止め、ホッとしたように上体を少し後ろに反らす。
ホッとしたのか、男は少し考えて真由美に質問をする。
「そうですか。では、今日のリハーサルをされるという方ですか?」
「はい。そうです」
真由美はにこやかに答えた。すると男は少し驚いた表情になり、また頭を振りながら掻き始めた。
「それはお若いのにご立派ですね。いやいや、お恥ずかしい所を見られてしまいました」
男は今日のリハーサルを、どういう人間が行うのか、知っている様だった。男はさっきより激しく頭を掻いて、照れた。
「では、失礼します。調律はバッチリです」
男は足早に舞台の袖を出ようとした。真由美は「ちょっと」と言って呼び止めた。男は振り返って足を止めた。
「なんでしょう?」
「あの、エリーゼ、何であんなに暗いんですか?」
真由美はちょっと聞いてみたかった。男は意外だなという顔をした。プロの演奏家が素人に質問とは。そう思ったに違いなかった。しかし、男は真由美に答えてくれた。
「ベートーヴェンの知人に『テレーゼ』という女性が、実在していたのはご存知ですよね?」
「はい。それは知っています。この曲は彼女に贈ったと言われていますよね。恋人に曲を贈るなんて、とてもロマンチックです」
男はそれを聞いて頷く。そして、話を続けた。
「私もそう聞いてました。それがですね、本で読んだんですけど、実はテレーゼの妹に恋をしていて、テレーゼは邪魔だったのではないか、と思うのですよ」
「えっ? そうなんですか?」
「いや、その本に『邪魔』と書いてあった訳ではないのですけど、私は何となくそう感じました。そこで『エリーゼのために』は『テレーゼのために終わった恋』の略と解釈しまして、暗く恨みを込めて弾くんですよ」
男はおどろおどろに言うと、鞄を持っていない左手を、幽霊の様に顔の前に差し出した。痛々しい火傷の跡があった。真由美は見えない振りをして、感心した様に頷いた。
「へー、そうなんですか」
そんな真由美を見て、男は幽霊の左手を顔の前で横に振り、慌てて否定した。
「いやいや、そんなに感心しないで下さいよ。『何とかのために何とかだ』って、日本語じゃないですか。ドイツ語で意味が同じかなんて、私は知りませんよ?」
男は笑った。真由美も笑った。しかし、真由美は思う。恋人に贈った曲にしては、明るく元気な曲ではない。美しいメロディーではあるが、そういう見方もありだなと。
「では、失礼します」
「ありがとうございました」
お互いに礼をして話は終わった。男は足早に去る。
真由美はピアノに向かうと、自分でもエリーゼを弾いてみた。さっきの男が弾いていた様に。しかし弾けなかった。最初は「あれっ」くらいにしか思わなかったが、三回弾いても、記憶にある音が出なかった。コンクールで優勝し、その祝勝記念コンサートを開くのだ。今、自分が弾けない曲なんて無い。そう思っていたのに少し焦りを感じた。さっきまでとは、まるで違うピアノを弾いている様だ。
「曲目にはないわ」
そう呟いて、リハーサルを開始する。時計を見ると丁度予定の時間になっていた。エリーゼを何度弾いた所で、指慣らしにもならない。真由美は両手でグーパーをしてそう思った。