Slowtime(十一)
祐次が日本に帰って来たとき、桜は既に散っていた。
結局祐次は、桜を見ることが出来なかった。だからと言う訳ではないが、祐次は足取りも重く、堤防のサイクリングロードを、一人歩いている。
去年の誕生日に、引越しした街だ。年末に、一度写真を持って来たのだが、マスターには逢えなかった。しかし、録画したテレビのニュースを見て、逢えなくて良かったと思った。
祐次は、早苗がクリスマスに飛び込んだのを、薄々感じてはいたのだが、それを、確認することが出来なかった。
確認するのが、とても辛かったのだ。
途中、海までの距離を表す看板の所で立ち止まると、少し寄りかかって休んだ。そして、カンカンと挨拶をする。今日は、野球のグラウンドには誰もいない。
他に寄り道をする理由も、見つけることが出来ず、祐次はSlowtimeに到着した。
表の看板も今日はOPENになっていて、店内には客がちらりほらりといた。でも、マスターの増田は暇そうだ。
祐次が扉をそっと開けると、増田が声を掛ける。
「お待ちしてました」
「どうも。お邪魔します」
祐次のいつもと違う挨拶に、増田はカウンターから出ると、祐次の肩を叩いた。そして、店の奥へ案内する。
店内にいた客の何人かは、祐次が入ってきたことに気が付いたが、誰も、そのことを気に留める者はいなかった。
増田と祐次は、ピアノの横にある扉を開けて中に入った。
「祐次さん、いらっしゃいましたよ」
増田が早苗に声を掛けた。早苗はテレビを消すと、スッと立ち上がってにこやかに振り向く。
両手を胸の前で組んでいた。
「いらっしゃいませ。お待ちしていました。どうぞ」
滑らかな曲線を描いて、きちんと指を揃えた手が、近くの椅子を指差した。祐次はぺこりと頭を下げる。
「申し訳ございませんでした」
椅子に座る前に、祐次は謝った。
「良いんですよ。どうぞ頭をお上げになって。あなた、コーヒーをお願いします」
「ほいほい。美味しいの淹れますからねぇ」
早苗に言われて、増田は祐次の方を向くと、明るく声を掛けた。祐次は表情を変えず「すいません」と言って椅子に座ると、大きくため息を吐いた。
「何からお話して良いのやら……」
祐次は、既に泣きそうになっていたが、それを堪えていた。早苗は笑って祐次に言う。
「ウィーンのお店に、来て頂いたそうですね」
「はい」
祐次は小さく答えた。祐次が余りにも小さ声で言うので、早苗は大きな声で、少し元気良く言う。
「紅茶をオーダーしたそうじゃないですか?」
「はい」
また小さくそう答えた。祐次は下を向いたままだ。
「看板が『Slowtime』だったので、もしやと思って、オーダーしました。でも、最初はドイツ語でビックリしました」
そこで祐次は顔を上げ、その時を思い出して苦笑いした。早苗は悪戯っぽい目をして、祐次に言う。
「あんな変なメニューを考えたのは、誰なんでしょうね。ドイツ語に翻訳するの、大変だったんですよ?」
祐次も苦笑いして「すいません」と言った。早苗も、思い出し笑いをしながら、話す。
「店の子が凄くビックリして、電話して来たんですよ。クリアした人が現れた! って」
「そうですか」
祐次は、苦笑いをするしかない。
「だけど、紅茶を止めて、コーヒーにしたって。あれは、私の真似をしたんですね?」
また早苗は悪戯っぽい目をして、祐次を見た。




