Slowtime(十)
長いオーダーが終わって、カウンターの中にある、大きな写真を見た。コンサートホールでピアノを弾く、増田の写真だ。
祐次はいつも「マスター」と呼んでいたが、そこにいたのは一人のピアニストだった。その証拠に、チョビヒゲがない。
祐次は、一人頷いた。
暫くしてコーヒーが出てきた。コーヒーを飲みながら、ウェイトレスが裏返しに置いて行った伝票を、何気なく見る。1000EUROと書いてあって、祐次はコーヒーを噴いた。
しかし、今日の日付を思えば、そんな伝票を気にする必要は、なかっ、た?
祐次は、日本語が判る方の店員を捉まえて、聞いてみる。
「マスターは、いらっしゃいますか?」
カウンターの奥の写真を指差す。店員は写真を見てから、申し訳なさそうに答える。
「今、奥さんと、日本に帰ってます」
「そうですか。それは残念。行き違いか」
祐次の言うことが判るのか、済まなそうに、店員はもう一度頭を下げた。
立ち去ろうとする店員を呼びとめ、店の奥を指差す。
「あ、あの車、見せて貰って良いですか?」
祐次が指差した先には、赤いMiniがあった。
店員は、車を見てから「どうぞ」と言った。にっこり笑って一歩後ろに下がり、祐次に道を明ける。
祐次は礼を言って席を立つと、ドキドキしながら店の奥へゆっくりと歩く。そして、同じ足取りで、Miniを一周する。
それほど時間は掛からなかった。なにしろこれは、Miniの後部座席を取った、MiniのMini。MiniMiniだからだ。
それに、祐次が乗っていた頃と同じ『3232』のナンバーだ。間違える筈がない。
祐次は、懐かしそうに天井をポンポンと叩くと、優しく撫でた。そして後ろに周ると、ナンバープレートの下、バンパーの裏に手を伸ばす。強力磁石の小さなキーボックスは、まだそこにくっ付いていた。祐次は嬉しくなった。
「ちょっと乗っても良いですか?」
顔を上げた祐次は、ダメもとで聞く。
時々そういう客がいるのだろうか。店員は『乗れるもんならどうぞ』と言う感じで「どうぞ」と言った。
祐次は嬉しくなって礼を言うと、ポケットから鍵を取り出し、Miniに乗り込んだ。
店員は、鍵の掛かったドアが開いたことにも驚いたが、普通、乗りたいと言ったら、運転席だろうと思った。
一体この日本人が、Miniで何がしたいのか、判らず不思議だった。覗き込んだが、助手席に座った祐次の右肘が、顔の辺りで水平に動いているだけである。店員からは、良く見えなかった。
「どうもありがとう」
直ぐに、笑顔の祐次が出てきたので、店員はホッとした。
祐次はドアをそっと閉めると、鍵を掛けた。またMiniの天井を撫でて、カウンターに戻る。
冷めたコーヒーを一気飲みし、会計をして店を出る。
10.00 Euroだった。ケーキ付きで。
祐次はライカを取り出すと、首に掛ける。
そして、桜を求め、光り輝くウィーンの街へ、消えた。




