Slowtime(八)
今年も桜が咲いた。
世間では花見だ何だと浮かれているが、美紀は、穏やかな気持ちで、歩いている。
池に映る桜の木を横目に、人込みの中を抜けると、誰も居ない墓地に出る。そこの片隅に、春香の墓があった。丁度、桜の木の方を向いているので、きっと親子三人で、楽しんでいるに違いない。
美紀はそこに、祐次から言われた通り『白いバラ』を混ぜた花束を持参して、春香に挨拶をする。
「お誕生日、おめでとうございます」
美紀は、暫く頭を下げていた。
再び池の横を通り過ぎる。抹茶と和菓子を出していたが、そこは我慢して通り過ぎた。バックから地図を取り出すと、Slowtimeを探して、川縁へ向かう。
Slowtimeは、直ぐに見つかった。ドア越しに早苗の姿が見えたので、美紀は元気良くドアを開けて、中に入る。
「いらっしゃーい」
早苗の声が店内に響く。お茶をするには、少し早い時間なのだろうか。店は閑散としていて、客は誰もいない。
「何にします?」
「じゃぁ、紅茶で」
「はーい」
早苗と美紀の声が聞こえたからだろうか。奥から増田も、顔を覗かせる。美紀の顔が見えて、笑顔で会釈。それを見て、早苗が増田に声を掛ける。
「紅茶淹れて差し上げて」
「はーい」
口の上を擦りながら、増田がのんびりと答えた。美紀は増田にも軽く会釈したが、笑いながら増田を指差す。
「何ですか? そのチョビヒゲ」
ウィーンで会った時は、そんなヒゲを生やしてはいなかった。増田はにやりと笑い、答える。
「変装なんです」
「変態なんです」
同時に早苗の声がした。
「あはは」
美紀は明るく笑う。何で変装なんてしているのか。
でも、美紀にはどうでも良いことだった。増田は早苗の後ろで「イーッ」という顔をしていたが、直ぐに、紅茶の準備を始めた。
美紀はカウンターの角に座って、増田夫妻に祐次のことを話し始める。増田の変装より、祐次の方が面白かったからだ。
「祐次さんたら、飛行機、乗ったことないんですって」
笑いを堪えつつ美紀が話す。早苗は驚いた表情を見せる。
「『あんな物が飛ぶ筈がない』ですって!」
美紀は祐次の真似をして言った。
祐次は高所恐怖症で、足が地面に付いていない飛行機が、何故飛ぶのか、不思議だった。
子供の頃『上から紐でぶら下がっている』と言って、笑われたらしい。だから、飛行機について色々調べていた。
先ずは航空力学。エンジンの開発史、構造も詳しかった。
ジェットエンジンでは、宇宙には行かれないと力説されて、美紀は「ヘー」と感心した。
飛行機の整備計画、部品管理、そして、乗務員のローテーションについても調べていた。
最後に、気象データ、飛行計画、自動操縦についての説明を受け、いかに飛行機が安全に配慮された乗り物であり、それを、実際に示した統計の表を指差していた。
ずらりと並ぶ、それらの本を見て祐次が説明してくれたのだが、それが、どうして『パスポートは東急ハンズ』なのかが、判らない。美紀は、説明を聞けば聞くほど、面白くてならなかった。
蛇足だが祐次は、読みかけだからと言って『ブラック・ボックス』という本を持って行った。きっと行きの飛行機の中で、読んでいるに違いない。
思い出し笑いは下品とされていたが、美紀と早苗は、笑いが止まらない。
「飛行機に乗る時は、靴を脱がないといけないって、教わったそうです!」
「酷い人に教わりましたねぇ!」
早苗が笑いながら答えた。増田は笑わなかったが、手が震えて紅茶を溢す。
「パスポートも、東急ハンズに売っているって、教わったそうです」
美紀は笑い過ぎて、腹筋が痛い。祐次の調査に、一つ足りなかったこと。それは、実際に搭乗する方法だったのかもしれない。
「今頃、正座して乗っているかもしれませんね!」
早苗が右手を振りながら、冗談っぽく言った。
「三等座席は、畳って言ってました!」
「えーっ」
早苗は目を剥いて、そっくり返った。
「そうそう『外国のエアラインは板張りだけど、日本のエアラインだと畳だから、グレードが高いんだ』ですって!」
「畳で、シートベルトはどうするんでしょうね?」
「さー。でも、早く行かないと、良い場所が取れないと」
「あぁ、それは合っているような、でも違うようなぁ」
「だから、一時間前に行くんだって」
「何か違うなー」
美紀は、紅茶を出したマスターに会釈をして、ミルクを少し入れた。そして、笑いながらかき回して、一口飲む。
「美味しい紅茶ですね。祐次さんが奨めるだけのことはあるわ」
美紀が紅茶を褒めた。それを聞いた増田と早苗は、キョトンとした顔になり、見つめ合って笑う。
「ありがとうございます」
悪戯っぽく顔を斜めにし、眉毛をピクピクさせながら、にっこり笑って増田が礼を言った。
美紀は祐次から、Slowtimeに行く時の注意事項を三つ言われた。一つは、看板が『CLOSE』でも気にするな。四月一日恒例の悪戯である。
もう一つは『自動ドア』。これも同じく、四月一日恒例の悪戯だ。その時美紀は、増田と早苗の顔を思い浮かべ、そんな悪戯をする人には見えなかったので、とても参考になった。
そして最後は『紅茶が絶品』との情報だった。美紀がウィーンで飲んだコーヒー。正直味は覚えていなかった。まぁ、あの時は仕方ないだろう。しかしオーダー時に、何処で『紅茶』をコールすればよかったのか。それを思い出そうとしていた。
しかしまぁ、現に目の前には、美味しい紅茶がある。それで良いではないか。
「これ、お持ちしました」
誰も入ってこない店内で、美紀は春香の日記を取り出す。今度は祐次に話をしてから持ち出して来た。そして、そのままあげてしまって良いとも、言われた。
「まぁ、沢山あるのね。読ませて貰いますわ」
早苗はパラパラと捲りながら言った。美紀も微笑んで頷く。
美紀は、春香に感謝していた。まるで、パッと咲いた桜を眺めて、春の訪れを感謝するかのように。
「何か弾いて差し上げて」
春香の日記を覗き見る増田に、早苗が声を掛けた。美紀は嬉しそうに、顔の前で拍手をする。
「マスター、お願いします!」
増田はにっこり笑うと、キョロキョロと誰もいない店内を見回す。それから、ゆっくりとピアノに向かった。
やがて、店内にピアノの調べが流れ始める。早苗と美紀は、ピアノが奏でる春を楽しみながら、優雅なひとときを送っていた。




