Slowtime(七)
「早苗さんは元気だった?」
意外な質問を不意に食らって、美紀はびっくりした。慌てて「ええ」と答える。答えたものの、説明中に『姉の名前』を言ったかどうかは、定かでない。
しかし、それはそれとして、一緒に市内観光したことを話した。夫婦で演奏をしてくれたことも話す。その時だけ美紀は、二人の演奏を思い浮かべて、にっこり笑った。
「とてもお上手で、プロみたいでした」
「へぇ、そうなんだ」
祐次もそう言って、少し笑った。
「何を聞かせてもらったの?」
祐次が美紀に聞く。しかし、美紀は困った。歌ってくれたのは、みんな外国語で、曲名も何とかの何番とか、そういうのだったから。
美紀は少し考えて、日本語で歌ってくれた曲を思い出し、ワンフレーズだけ、歌うことにする。
「えっとね、『いつか見せた笑顔の、とっときのアンコール』こんな感じの曲」
「ええっ!」
美紀は、祐次がとても大きな声で驚いたことに、驚いた。祐次は写真を持ったまま立ち上がる。
「た、大変だ! どうしよう。どうしよう」
祐次は慌てていた。明らかに動揺もしている。手から離れた二枚の写真がヒラヒラと、再びこたつに落ちて行くのも目にすることなく、両手を頭の上で重ね、部屋をぐるぐると歩き周り始めた。
そのまま箱につまずいてこけ、こたつに手を付いたので、こたつが激しく揺れる。しかし、気にする様子もなかった。そのまま四つん這いで春香の思い出ボックスへ走り寄ると、中をガサガサ漁る。そして、Miniのキーを取り出した。
そのまま立ち上がると、押入れを開けて、旅行鞄を取り出す。蓋を開けると、まずそのキーを入れた。そして、上から洋服やら、下着やら、何か明らかに適当に入れている。
最後は蓋を倒した後、鞄の上に乗って、フックを閉めた。
祐次の様子を、こたつに入ったまま、美紀はポカーンと眺めていた。祐次は美紀の存在を、完全に忘れている様だ。その内、余りにもラフな格好に気が付き、その場で着替え始めたからだ。
美紀は驚き、一応、目を逸らした。
着替え終わって、鞄を引き摺る音がしたので、美紀は祐次の方を見る。すると、こちらへ来る祐次と目が合った。
「ちょっとウィーンに行って来る」
祐次はそう言って、出掛けようとした。美紀は慌てて聞く。
「住所は? 飛行機は?」
美紀は、ウィーンの住所を書いた紙を、取り出そうとする。しかし祐次は、そんなものは不要とばかりに、美紀の前を通り過ぎた。
知っているのが当然のように、感じられた。いや、そうではなかった。美紀の前を三歩通り過ぎ、ピタッと立ち止まる。
「住所? あ、知らない」
「今、紙を……」
美紀は急いで、住所の紙を出そうとする。祐次は時計を見た。
「飛行機はNRTからJLかAFで、CDGかLHR経由のVIEだね」
「は?」
美紀は、何を言っているのか判らなかった。しかし、これだけは判る。祐次は本当に、今からウィーンに行ってしまいそうだ。
「早くしないと、お昼の便が行っちゃう!」
そう言うのと同時に、祐次は歩き始める。美紀はメモが見つからず、焦って顔を上げた。
「パスポートは?」
再び歩き始めた祐次の後姿に、美紀が聞いた。祐次は「あっ!」と叫んだ。美紀は聞いて良かったと思った。忘れたら大変だから。
祐次が鞄を置いたので、美紀は祐次が戻ってくると思った。
「東急ハンズに行って、買って来ないと!」
祐次が玄関に向って走る。
美紀は鞄を放り出し、祐次の足に抱きついて、止めた。




