Slowtime(二)
増田はみのりのことを良く知らなかったが、美紀のことはきっと娘だろうと思っていた。そうでなければ名代として、ウィーンまで来ないだろう。しかし、結婚式は既に終わっている。それを思うと、少し不思議だった。
「あの、みのりさんからの言付けなのですが」
「はい」
増田はその時、美紀が来た理由が聞けると思った。
「春香さんのことで、早苗さんにお話したいことがあるのです。お会いできませんか?」
増田は、渋い顔をする。早苗には思い出したくない過去が、二つあった。一つは去年のクリスマス。もう一つは妹、春香のことだったからだ。
最近、少しだけ元気になった早苗に、果たして春香の話をする必要があるのか。増田は思い悩む。しかし、みのりにも手紙を出したのだから、きっと大丈夫だろうと考えた。
増田はいつの間にか腕組みをしていて、それが美紀には、とても不安に写った。
「うーん、余り長くは無理ですが」
「少しで結構です」
腕を解きながら増田が言うと、美紀は直ぐに答えた。その返事を聞いて増田は微笑むと、エプロンを外してカウンターを出ると、振り返る。
「ちょっとだけなら大丈夫だと思います。お待ち下さい」
そう言って増田は奥へ消えた。
階段をトントントンと上る音がする。店はまた静かになっていた。耳を澄ますと、モーツアルトが掛かっている。
美紀はもう一度コーヒーを飲み、そして考えた。何の事情か知らないが、きっと早苗は病気なのだろう。外はもう薄暗くなっていて、美紀は慌てて時計を見る。思ったより日暮れの早いのを目の当たりにして、まだホテルも探していないことに気が付く。
美紀はバックから旅行案内を出そうとしたが、その時トトトントンと音がして増田が現れる。
美紀は鞄に手を掛けたが止めて、そのまま立ち上がった。
増田は美紀の横を通り抜ける。美紀は驚いて上半身を捻り、増田の後姿を目で追う。増田は入り口の所へ行くと、看板をCLOSEにして鍵を掛けた。見回しても、客は美紀しかいない。
これで一安心と思ったのか、増田はゆっくりと戻ってきた。そして、再び美紀の横を通り過ぎると振り返り、美紀を手招きで呼ぶ。
「こちらです」
「はい」
美紀は足元の大きな鞄を持とうとしたが止めた。店は無人だし、長く居るつもりはなかったからだ。鞄を置いたまま歩き始めた美紀を見て、増田は頷く。でかい鞄をどうするのかと、思っていたのだろう。増田は鞄と美紀を交互に見ながら、小さく頷いた。
「あまり興奮させないで下さいね」
「はい。判りました」
細い階段を上りながら増田と美紀は小さな声で言葉を交わした。そして、増田がコンコンと扉を叩く。中から返事はなかったが、増田はドアを開けた。
中からはオレンジ色の光が漏れて、増田と薄暗い廊下を照らす。増田の優しい微笑みを見て、そこに大切な人が居るのだと、美紀には判った。
ドアと一緒に増田が部屋の中に入り、そして首だけ出して、美紀を呼ぶ。美紀はお辞儀をして、部屋に入った。そこはベットが一つと小さな机が一つ。そして、大きなイスが一つあった。
美紀は興奮させないと約束したが、守る自信がなかった。しかし話さなければならない。美紀の後ろでドアの閉まる音がして、美紀は、何から話すか判らなくなった。
美紀が入ってきたのを見て、早苗が起き上がる。すると、直ぐに増田が美紀の横をすり抜け、早苗の肩に腕を廻して支える。美紀は『あっ』と思ったが、何も出来なかった。
早苗が上半身を起こして会釈する。
「みのりさんから、春香のことでお話ですって?」
先に早苗から美紀へ質問があった。その質問を無視するかの様に、増田が椅子を美紀に勧める。美紀は「はい」と答えながら、イスに座った。暖かいストーブの傍にあった為か、イスは暖かかった。
美紀が座ったのを見て、増田は少し離れた机にもたれ掛かった。
「はい。お時間少しと伺っておりますので、単刀直入にお話します」
美紀の言葉に早苗は頷いた。美紀は両手を膝の上で握り、少し早口で話し始めた。
「春香さんは、殺されたのではありません。愛する人を助けるために、僅かな確率に掛けたんです。それが功を征して、祐次さんは岩に着地し、助かりました。ですから、早苗さんにそのことを伝え、訂正して欲しいと、頼まれました」
「えっ」
いきなり言われたので、早苗は興奮出来なかった。そして理解もできなかった。判ったのは春香は殺された訳ではないと。
「どういうことですか?」
早苗は要約し過ぎた美紀の説明を、もう少し詳しく聞きたかった。
「春香さんが滑落した場所は、以前みのりさんと一緒に行ったことのある、思い出の場所です。そこには細い尾根があって、南の斜面は絶壁で、北の斜面は岩がごつごつとあるのだそうです」
初めて聞く話に、うんうんと早苗は頷いた。
「ザイルで、繋がれていた二人は、どちらかが、滑落した場合、反対の谷へ、飛ぶのだそうです。そうしないと、二人共、落ちてしまうので。春香さんが、ザイルを踏んで、滑落した時、自分が助かろうとして、北の谷へ落ちると、祐次さんが、死んでしまうと考え、自ら、南の谷へ、落ちたのだろうと」
ゆっくりと淡々と話したので、早苗は目頭を、そっと拭いただけだった。しかし、沈んだ空気が部屋を包む。
「そうですか。判りました」
春香が殺されたなんて、早苗は信じてはいなかった。怒り狂うみのりに恐怖を覚え、『人殺し』と、ののしられて追い出された男には、哀れみを感じていた。その時の様子を思い出して、早苗は言葉を続ける。
「私がちょっと、そのぉ、酷く、泣いたので、みのりさんも、心配して下さったのですね。わざわざ遠い所まで、お話しに来て頂いて、ありがとうございます」
早苗はベッドの上で、美紀に頭を下げる。増田も頭を下げた。
「本当に、それだけで来られたのですか?」
心配そうに、早苗は美紀に声を掛けた。
電話でも手紙でも済む様な話だった。早苗はそう思ったが、今の自分の状況を考えれば、それは確かに無理。
それにしても、早苗は不思議だった。あのみのりが、何故春香のこのことを、早苗に話す必要があったのか。そして、何故今なのか、不思議に思った。
それでも早苗は、心の中で一つ、心配事が消えていくのが判った。みのりが春香を愛してくれたことに感謝しつつも、あの怒りに満ちた顔を見るのは、早苗にはきつ過ぎた。
美紀はハンドバックをかき回していた。そして、そこから一枚の書類を取り出す。そして、申し訳なさそうに言った。
「実は、証人になって頂きたいと思いまして」
取り出したのは婚姻届だった。早苗と増田は顔を見合わせる。
判った。この美紀という女性は『春香の彼氏』と、付き合っているのだろう。早苗は笑った。
「私でよろしいのですか?」
早苗は美紀にそう言うと、口元に手のひらをあてる。
「早苗さんのサインがないと、きっと、私と結婚してくれません」
小さい声で美紀は言った。早苗には、それがよく判らなかった。増田が小さな机を持ち上げると、トコトコと歩いてきて、ベッドの隣に置く。そして、美紀に微笑んだ。
美紀は立ち上がって、机の上に婚姻届を広げる。そこには、浜田みのりの名前が書いてあった。
「あれ? 一つは新郎側ですよ?」
「はい」
早苗は念を押したが、美紀は明確に返事をする。その返事を聞いて、増田と早苗は目を合わせて再び笑った。
美紀から差し出された万年筆を使い、早苗は証人にサインした。その万年筆を、しげしげと見つめていた早苗は、万年筆を美紀に渡しながら提案する。
「よろしかったら、うちに泊まって行きませんか? お話も聞きたいですし」
早苗は増田の方を見た。増田が頷いたのを見て、もう一度美紀の方を見ると「ねっ」と言った。美紀は姿勢を正して「お願いします」と礼を言い、頭を下げた。
外はすっかり暗くなっていて、小さな窓から灯火が、町を照らしているのが見えた。




