Slowtime(一)
美紀は義姉の家を再び訪れると、みのり園のことを話した。そして、突然ウィーンに行くことになったと説明する。
義姉は笑いながら「おー、何処でも行け」と気さくに言うと、押入れを開けて、沢山の旅行鞄を見せた。ウィーンの何処か聞かれた美紀は、預かった封筒を義姉に渡すと振り返り、適当な大きさの旅行鞄を物色し始める。
「これ、狩りて行くね」
「ん? あぁ、うん」
鞄を選んだ美紀が振り返ると、手紙を見ていた義姉が目を剥いている。本当にウィーンに行くのだと思って、驚いている様だ。
「本当に、ウィーンなんだってばー」
そう言いながら、笑って美紀は封筒を取り返す。そのままの形で手が止まっていたのだが、直ぐに義姉は我に返った。
「ウィーン饅頭よろしくねぇ」
義姉はそんな冗談を言って、先に部屋を出て行った。
ウィーンに行くには、飛行機を乗り継いで行く。だから美紀は、傷を付けてはいけないと思って、既に傷だらけな、一番古そうな鞄を選んだ。でも、可愛いピンク色が気に入った。
そして美紀は、有給を全部投入してウィーンにやって来た。雪の残るこの時期は、観光客も少ない。周りを見渡しても澄み切った青空があるだけで、日本語にはお目に掻かれない。
片言の英語でドイツ語圏を歩く。結構大変。しかし、予め住所をドイツ語にして紙に書いてきたので、空港から市内までタクシーで行くことにした。大事なのは、目的地に着くことだ。
ぼんやりとタクシーに乗っていた美紀は、運転手が振り向いたので我に返った。タクシーが止まったのは裏通りの角、人影もまばらな路地だった。テレビや雑誌で見たことのある様な古い町並みが、窓の外に続いている。
タクシーを降りた美紀は、路地をコトコトと走り去るタクシーが、角を曲がって見えなくなるまで見送った。別にそうすることが日本流の礼儀という訳ではないが、周囲三百六十度を見回して、そこに立ち尽くす理由にはなった。
日陰に残る雪を見て、美紀は両手を合わせて顔に持って来ると、ハーっと息を吹き掛ける。そして、大きく深呼吸をして、冷たい空気を肺の奥まで詰め込んだ。
美紀はそれで冷静になれた。左右を確認して路地を渡ると、角にある店の前に立ち、勇気を振り絞ってドアを開ける。
「いらっしゃーい」
意外にも日本語で応対された。カウンターには日本人がいて、ふきんでカップを磨く手を止め、その手でカウンター席を指した。美紀は頷いて、そこに座った。
「ホットですか? アイスですか?」
「え、ホットで」
「かしこまりました」
カウンターの男は限られた選択肢しか提示しなかった。美紀はホットとコールしたが、何のホットなのかは確認できない。別に、何が出てきても良かった。それでも、ホットコーヒーだったら良いなと思いながら、店内を見渡す。
掃除の行き届いた店内は、黒光りする木から温もりを感じ取ることができる。小さめの格子の窓がポツポツと規則正しく並び、そこに小さなテーブルが並んでいた。表から見たより中は意外と広く、奥行きもそれなりにあった。美紀はカウンターから少し首を伸ばして、窓際に置かれた花を目で追いながら、奥の方を覗き込んだ。一番奥には小さな車が停めてあった。店内オブジェだ。何だろうと良く見ようとしたら、声を掛けられる。
「はい。ホットです」
美紀は声のする方に向き直り、黙って会釈した。香りからしてコーヒーに違いない。美紀は少しホッとした。
一口飲むと、さっき吸い込んだ冷たい空気が通った跡を、暖めながら降りていく。美紀はゆっくりと体の奥でコーヒーの温もりが消えていくのを待って、カウンターの男に話しかける。
「あのう、増田早苗さんは、こちらにいらっしゃいますか?」
すると男は、再び磨いていたコーヒーカップを落しそうになって、びっくりした表情になった。
「ど、どちら様ですか? 失礼ですが」
そう言われて美紀は、そんなにびっくりすることもないだろうと思った。みのりから連絡が行っていなかったのだろうか。それでもしかし、一応こちらが先に名乗るべきだと思い直す。美紀は、みのりから預かった封筒を取り出して、自己紹介する。
「初めまして。私、安田美紀と申します。みのりさんから、このお手紙をお預かりして参りました」
「そうですか」
見覚えのある封筒を見て、カウンターの男はホッとした様だった。カップを下に置き、両手をきちんと揃えて立ち、美紀に答える。
「増田雄大と申します」
そう答えながら頭を下げた男は、つられて頭を下げた美紀と再び目が合うまで待つと、右手を上げて言った。
「妻は二階にいます」
「よかった。ココだったんですね」
美紀が言うと、増田もにっこりと笑った。




