ディアノの行方(十七)
中学を卒業して春香はここを出た。そして働きながら高校に行って、不況の中、懸命に就を探して歩き回った。時々ボロボロのスニーカーで遊びに来た時は、年頃なのにスッピンで、口紅を無理矢理塗って、そのまま持たせたことさえあった。そんな細かいことをみのりは思い出して、薄笑いを浮かべた。
それが生きていれば、今、目の前にいる美紀と同じ位だろうか。おしゃれをして、結婚して、子供を生んで、赤ん坊を連れて来てくれるだろう。いつも通りそこに座って、孫はこっちへ笑顔で来る。
孫が大きくなって喋れる様になったら『お婆ちゃん』なんて言われる。嬉しいような悲しいような。なんだい。わたしゃそんなに年行ってないよ。でも、まぁ、可愛い孫にはお菓子をあげよう。そしたら春香に怒られて。
怒られて? 怒られる? 私が春香に怒られる?
春香が、私を、怒る?
春香が私を怒るのか。泣いた顔なら何度もあるが、怒った顔なんて見たことがない。思い出せない。怒った顔、怒った顔。怒ったらどんな顔だろう。
みのりも美紀も黙っていた。しばらく沈黙が続いた。美紀は真っ直ぐみのりを見ていた。みのりは黒目が左右に揺れ、焦点が定まらない様子だった。時々美紀を馬鹿にした様に薄笑いを浮かべ、そして涙目になりながら、美紀を睨んでいた。
そのまま互いの呼吸が、段々荒くなっていくのが判る。それでも二人とも、一言も喋らなかった。
どれ位経ったか。そんな時間のことは、二人にとってどうでも良くなっていた。やがてみのりのぼんやりとした焦点が、キュっと締まって美紀を捕らえる。その時だけみのりは、美紀にハッとした表情を一瞬だけ見せた。
みのりは美紀から目を逸らして上を向き、首を曲げて春香の遺影を見た。そして、大きく深呼吸をして、涙を拭いた。
みのりは、観念した様にボソボソと喋り始めた。
「あそこはね、強い北風が吹くから、南側に雪庇が出来るんだ。だから北側は雪が少なくて、アイゼンを着けて歩くと岩を踏んで危ないんだ。でも、南側は、空中に雪のひさしがあるだけだから、もっと危ないんだ」
みのりが手で雪庇を説明した。美紀は山のことは良く判らなかったのでうんうんと頷いた。
「あそこは、ごつごつした岩が突き出しているんだ。だから、滑落するなら北側に落ちろって、前行った時、春香に言ったんだ。あの子は笑って『うん。判った』って言ったよ」
みのりは溜息を吐いた。
「だから、切れかけたザイルで北に落ちれば、南の谷に飛んだ人はザイルが切れて死ぬ」
その言葉に美紀は息を呑んだ。みのりは、また溜息を吐いて続きを話した。春香を代弁する優しい声だった。
「春香は迷わず南の谷に落ちて、あの男を北の谷に飛ばせたんだ。そして、半分より長く落ちたのを見て、岩の上に着地したと判っただろう。そこでザイルが切れたとしても、笑って落ちたよ。あの子はね、小さい頃から落ちるの上手かったんだよ。アニメの歌を見ながらこたつの上で踊ってて、落ちる時は座布団の上にパフッて落ちたもんさ。二百メートルくらいわけないさって思いながら、愛しい人の無事を喜んで、谷に消えたのさ。うぅ……」
美紀は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
みのりは口を押さえたまま、止まらない涙を拭うこともなく下を向いていた。
「あの男にそう言ってやるんだね」
「はい」
美紀は何度も頷きながら、鼻水を啜った。
「すみません、お願いがあるのですが、よろしいですか?」
「何だい? 今度は」
みのりは怪訝な顔をした。美紀は微笑んだ。
「祐次さんと結婚する時の、証人になって頂きたいのですが」
「あんた、そこまでしてあの男がいいのかい?」
みのりは呆れた。そして薄笑いを見せた。それを見て、美紀は元気良く、そして、短く答えた。
「はい」
みのりは美紀をせっついて、早く書類を出す様に言った。美紀は慌てて鞄から綺麗に折り畳んだ婚姻届を出した。
それを、みのりは奪う様に取上げ、続けて美紀が差し出した万年筆を、少し笑いながら奪い取った。新郎新婦の欄が空白でも何も言わない。あの日と同じ様に、証人としてサインした。そして万年筆を置くと、ぶっきら棒に言った。
「まぁ、頑張りな」
「はい。ありがとうございます」
みのりは悔しかった。あの男は、春香と結婚するはずだった。それが、こんな女と結婚か。けっ。小さく呟いた。
美紀は鼻を擦りながら立ち上がった。そして、もう一度みのりに深々と頭を下げた。みのりは少し照れ臭そうにハイハイといった感じで手を振る。
「あんた、春香と似ていて優しいね。きっと好きになってくれるよ」
「ありがとうございます」
そう言って美紀は頭を下げた。みのりの顔の向こうに、春香の遺影があった。美紀には、それは誰が撮影し、どこから抜け落ちた一枚なのか、直ぐに判った。それは凛として遠くを見る、正にモデルの春香だった。
美紀は自分が春香と似ているなんて、祐次に言ったことを思い出して、恥かしくなった。そして、またみのりに言われて、不安になる。
みのりは美紀が何を見たのか、直ぐに判った。我が子なら目を見れば、考えていることが直ぐに判る。ぺこりと頭を下げた美紀を、みのりはその太い腕で抱きしめた。物凄い力で抱き締められて、美紀は何事か混乱した。記念に一発殴られるのかと思って覚悟する。
みのりは大きな口を美紀の耳に近づけると、そっと呟いた。
「振られたら、私がぶん殴ってやるから」
それを聞いて美紀は、全身の力が一気に抜けていくのを感じていた。慌ててみのりは、美紀がずり落ちて行かない様に支える。美紀もはっと気が付いて、足に力を入れた。それを感じてみのりは腕を解くと、美紀の両肩に手を回して力強く揺すった。
美紀は軽い脳震盪になりながら出口へ向うと、そこで靴を履いた。別れの挨拶をするため、美紀は足元を確認してもう一度みのりの方に振り返った。
するとそこでみのりは、何かを思い出した様にポンと手を叩いた。
「大変だ。お姉さんにも言ってあげないと」
「え?」
美紀は何が何だか判らなかった。春香に姉がいるとは知らなかった。日記にも書いてなかった。
「お父さんが違うんだけどね。この前家に来た時に『春香は殺された』なんて言ってしまったから、泣いちゃって……」
バツが悪そうにみのりは言った。
「一昨日、結婚するって手紙が来ていたんだけど、あんた、逢ってくれるかね? ちょっと遠いんだけどさ」
そう言われて美紀は思い出した。あの雑誌社の二人が探している人だった。何とか早苗さん。美紀は迷わず「はい」と答えた。
するとみのりは頷いて、茶筒の隣から手紙を取り出すと、中からカードを取り出し、式場を示した地図を見た。
「ここなんだよね」
地図を見ても何処だか判らないらしく、直ぐに美紀の方へ差し出す。美紀は両手を差し出した。
「ウィーン? わたしゃ飛行機苦手でね」
「はい?」
美紀は半音高い声を出し、葉書を受け取って直ぐに見た。確かにそこには早苗の名前があり、ウィーンで式を挙げると記述されていた。
聞いたことはあるが、何処にあるかは判らない。それが、何とかの都ウィーンだ。みのりは「判るかい?」と言いながら、残りの封書を手渡し、今渡した地図を心配そうに覗き込んだ。しかし美紀は、にっこり笑って、みのりに答える。
「愛の為なら、地球なんて何周でも回りますわ」
「そうかい。よろしく頼むよ」
それを聞いて安心したのか、みのりは今日一番の笑顔を見せた。美紀も笑顔を見せ、大事な封筒をバックにしまうと、再び頭を下げて玄関を出て行った。
ドアがパタンと閉まると、みのりは神妙な顔付きになった。そして寮母室に戻り、小さな仏壇の扉を開ける。その前にちょこんと座ると、登山の格好をして微笑む写真を見て、溜息を吐いた。
「あんた……下にいて、春香を受け止められなかったのかい? しょうがない男だねぇ……」
みのりは施設を開設する、少し前のことを思い出していた。枯れたはずの涙が出てきて、慌てて天井を見上げた。
春香の写真が目に入った。みのりには春香が、右手で自分の頭をゴチンとやる姿が見えた。
「『エヘッ』じゃないよ! あんたは、本当にドジな子だよ」
みのりは溢れ出る涙を止められなかった。
今出て行った美紀の様に、お洒落な服を着て、ピカピカのヒールを履いて、何とかっていうバックを提げている春香を、見たかった。
しかし、ノックもなくドアがバタンと開いたので、みのりには感傷に浸る時間も、与えられなかった。
驚いたみのりの耳に、甲高い声が飛び込む。
「かーちゃん! また晴香と雄二が、喧嘩してるよー」
みのりは涙をそっと拭くと、舌打ちをする。
「いつもいつも、しょーがない二人だね! どこだい? 引っ叩いてやるよ」
みのりは前を向いて腰を上げる。そこへ、呼びに来た子供とは別の子供が、みのりの所へ走って来る。
「晴香が雄二を、ボッコボコにしてるよー」
みのりは、またかと思いながらお尻を掻く。その手を、呼びに来た二人の子供が一本づつ引っ張りながら、みのりを現場に連れて行った。




