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piano  作者: 永島大二朗
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ディアノの行方(十六)

 街は、一足早いバレンタインデーを楽しむ人達で溢れている。その中を、美紀は一人で歩いていた。インターネットで調べたみのり園は、確かこの辺にあるはずだった。

 美紀は義姉のアドバイスを受け、何日か悩んだ。読んではいけない日記を読んでしまった思いと、それを書いた春香の思いを、成就させてあげたい気持ちがあった。

 だから一度、みのり園に行かなければならないだろうと思った。何をどう話したら良いか必死に考え、心の準備を整えた時、もう二月になっていたのだ。


 みのり園と書かれた表札の隣にある呼鈴を、美紀は押した。

「御免下さい」

「はーい」

 少し間の抜けた返事があって、出てきたおばちゃんに美紀は話しかけた。

「初めまして。安田美紀と申します。春香さんの件でご相談に上がりました」

 美紀は丁寧に頭を下げた。それを見たおばちゃんは、気楽な客が来た思った。

「おや、春香のお友達かね? まぁ、お上がんなさい」

 美紀はもう一度会釈をして、おばちゃんの後について行った。自己紹介はなかったが、このおばちゃんが浜田みのりだと思った。玄関で靴を脱ぎ、寮母室に入った。


「どっこいしょー」

 みのりが大きな声でこたつに入った。そして点けっ放しだったテレビを消した。

「あ、丁度良い所だったのにすいません」

 美紀が声を掛けると、みのりは「DVDよ」と言って笑った。美紀は手で勧められるまま、こたつの反対側へ行き、そこで座布団に正座して座った。狭い部屋で、後ろはもう箪笥だった。美紀は膝をこたつの中に入れると、こたつ布団を綺麗に整えた。

「春香のお友達? 中学? 高校時代?」

 みのりが美紀に質問した。美紀は首を横に振った。

「違います。春香さんとは直接面識はありません」

「おや、じゃぁまた雑誌社の人かい?」

 みのりが怪訝な表情を見せる。


 美紀は祐次の家から追い返した雑誌記者二人を思い出していた。そして、その内の一人をぶん殴ったことも。あの時は祐次のために、祐次の代わりに質問に答えた。それが一番良いと思った。ぶん殴ったのも、祐次の代わりのつもりでいた。しかし、やはり暴力はいけない。

 それに、あのまま祐次を雑誌記者に会わせても、きっと冷静に対応したに違いなかった。それを思うと自分が情けない。

 あれから雑誌社の人が、再び祐次の家を訪れたかどうか、それは判らない。雑誌社の人が来たことを話もしなかったし、再来を確認する勇気もなかった。

 自分は一体何をしているのだろう。ただ単に、昔のことをかき回しているだけではないか。人の心の傷を広げているだけなのではないか。急に美紀は怖くなった。美紀が、今しようとしていることは、目の前のみのりからぶん殴られてもおかしくない。ずんぐりと太いみのりの腕を見て、末っ子の美紀に『撲殺』の二文字が浮かんだ。


 しかし美紀は腹を決めた。もう引き返さない。こたつに入れた両手を握り締め、みのりの質問に対し首を横に振った。

「そうではありません。私は春香さんの日記を読んだ者です」

「そうかい。まぁ、人の日記なんて読むもんじゃないよ」

「はい。とても反省しています。引越しの手伝いをしていて、弾みで読んでしまいました」

 みのりはそれを聞いて、この女が誰の関係者か判った。春香を殺した男の新しい女だ。こいつの為に、春香は殺されたんだ。みのりは温くなったお茶に手を伸ばすと、一口飲んだ。招きたくない客を入れてしまったと思った。それよりも、何しに来たんだと思った。きっとろくでもないことに違いない。

「それで、私に何の用かね?」

 お茶をこたつに置くと、じろりと美紀を睨んだ。みのりは気が付いていなかったが、それは普段子供を叱る時の目とは違っていた。

「はい。私は春香さんの日記を読んで、春香さんが好きになりました。そして、祐次さんも好きになりました。しかし、祐次さんからは、お付き合いを断られました」

「そうかい」

 みのりはそっけなく答えた。当たり前だ。春香より良い子なんて、そうそういるもんか。お前のせいで春香は殺されたんだ。お前になんて、春香を好きになって貰わなくて構わない。全然構わない。みのりはそう思って、下を向いた。

 あからさまに聞く気のないみのりに、美紀は丁寧に話した。

「私は祐次さんから怒られた時、祐次さんが深く春香さんを愛していたことが判りました。そして、春香さんが滑落した時、自分だけが生き残ったことを悔いていました」

「そうさ。あの男は春香を殺したんだよ」

 みのりは頭に血が昇っていた。すっと顔を上げると、そのまま美紀を睨みつける。美紀は相槌でも頷かなかった。

「私は山に行かないので、詳しいことは判りません。でも、祐次さんは春香さんが南の谷に落ちたので、躊躇なく北の谷に飛んだと言っていました」

「北の谷? そうかい」

 ぎろりと睨んでいたみのりの顔が、一瞬意外な事実を聞いた様な顔になった。しかし直ぐに、恨みに満ちた顔に戻る。みのりが気にしたのは、祐次が飛んだ方角だというのは判った。

 美紀は話をしながら、怖かった祐次の様子を思い浮かべ、間違いなく北の谷だったとを確認する。そして、話を補足した。

「はい。そして二メートル下の岩に着地したので、春香さんと結んでいたザイルが切れたんだと、言っていました」

「けっ。運の良い男だね」

 みのりは下品に言葉を吐いた。一度小さく左に首を振り、右に振りながら横を向く。美紀は横を向いてあらわになった左耳に、よく聞こえる様に言う。

「いいえ。決してそうではありません。祐次さんは、そのまま谷に落ちれば良かったと言っていました。それなら、笑って落ちて行けたと」

 美紀は、真っ直ぐみのりを見て言った。言い終わらない内に、みのりが動いた。

「嘘だよ! そんなの言い訳だよ!」

 みのりが横を向いたのは、涙を美紀に見せない為だった。素早く正面に向き直ると、涙を浮かべたまま、美紀の目を見て言い返す。美紀は目を逸らさなかった。

「教えてください。ザイルは何故切れたのですか?」

 美紀はみのりに質問した。不思議と美紀は冷静だった。みのりの涙を見ても平気だった。みのりの目は怒りと恨みに満ち、口はへの字に曲がっていたので、いつ殴られてもおかしくないとは思っていた。美紀の質問にみのりは答えない。

 黙っているみのりに、美紀は話を続けた。

「春香さんは、日記に書いていました。祐次さんはとても優しい人だと。お願いごとは全部聞いてくれると。別れてくれと言えば聞いてくれるだろし、殺してくれと言えばきっと殺してくれるだろうと。そして、ずっと傍にいて欲しいと言えば、傍にいてくれると」

「極端な男だね」

 春香の日記を聞いて、みのりは呆れたように吐き捨てた。

「そうです。馬鹿正直なんです。だからこそ、きちんとお別れが言えなかった場合を、春香さんは心配していました」

「そんなの、春香が心配することじゃないよ」

 みのりは薄笑いを浮かべた。春香はそんなことを心配する子じゃない。春香の気持ちは自分が一番判っている。目の前にいるお前や、まして、お前の男になんか判るはずがない。みのりは口をへの字からやや角度を戻し、口の左端と鼻から、息を同時に吐いた。

 それを見て美紀は首を左右に振ったが、決してみのりから目を逸らさない。まばたきもせず、みのりが見える範囲で首を振っていた。

「いいえ。春香さんも祐次さんと同じ気持ちでした。今を精一杯生きて、思いっきり愛す。そしていつか来る、必ず訪れる別れの時は、きちんとお別れをする。そう決意されています。残念なことに春香さんは、祐次さんにお別れの言葉を言うことが出来なかったんです」

 みのりは美紀に早く帰って貰いたくなった。春香は死んだ。あの男に殺されて死んだ。今更何だ。何もかも終わった話なのだ。みのりは深呼吸すると、美紀の話しに割り込んだ。

「とにかくね、あの男は春香のザイルを切ったんだよ。愛していたとか好きだったとか、そんなことはどうでもいいんだ。どうでもいいんだよ。あの子はね、誕生日に両親が死んで、それも理解出来ずにね、ケーキケーキって騒いでいたかわいそうな子だったんだよ。うちの施設に来てからも、お父さん、お母さんが迎えに来るって言って聞かなかったよ」

 みのりはこたつから両手を出すと、美紀を見て手を振りながら話し始めた。春香のことを話し始めると止まらなくなっていた。美紀は、みのりの話を聞くことにした。

「誕生会をやった時だって、あの子はこの部屋から出てこなかった。毎月毎月、毎年毎年、ずっとあの子は耐えてきたんだ。誕生日と聞くと思い出しちゃうんだよ。その日のことを。いつもは笑顔のかわいい子なんだ。それがね、誕生日って言うと、泣きそうな顔になるんだ。辛かったよ。あいつはね、そんな春香のザイルを切ったんだよ」

 あいつが誰を指しているのか。そんなことは承知している。今、目の前に真っ直ぐ向けられているみのりの指先を見て、美紀は喜びさえ沸いてくる思いでいた。美紀はゆっくりと深呼吸をすると、みのりにやさしく語りかけた。

「春香さんは祐次さんと出会って、誕生日が好きになりました。早く来ないかなと言っていたそうです。春香さんは変わったんです。クリスマスは来なくて良いから、祐次さんの誕生日を祝うとも言ったそうです」

 みのりは驚いた。春香にとってクリスマスは、一年で一番大事な日のはずだった。みのりは美紀が語っている春香は、全然別人なのではないかとさえ思った。

 みのりが最後に見た春香は、大嫌いなお酒を大事そうに抱え、大嫌いだった自動車を自ら運転して、夕日に消えたのだ。あれは幻か。じゃぁ骨だけになった春香は別人?

 美紀はみのりが驚き、混乱していることに気が付かなかった。そのまま話を続ける。

「そんな祐次さんのために、春香さんはきちんとお別れが言えなかった時の代弁者として、あなたを指名しています」

「私が代弁者?」

 今度は美紀がみのりを指した。こたつの中で固く握られていた右の手の平から、汗が一気に蒸発していくのが判った。

「そうです。お母さんなら、春香さんのことを良く知っている。だから、祐次さんに別れの言葉を言ってあげられる。春香さんが何を言いたかったのか、お母さんには判る。そう書いてありました」

 春香の代弁者と言われ、みのりはさらに混乱した。唇がプルプルと震えて、何を言って良いやら判らない様子だった。

 みのりは考えた。自分は春香から信頼されていたし、みのりだって春香は大好きだった。春香の目を見れば、何を考え、何を言わんとしているのか判った。自分は春香の母親なんだから当然だ。だから葬儀の日、婚約者と抜かしたあの男に、春香が言いたかった言葉を全部叩き付けたつもりでいた。間違っていないはずだ。自分はもっと自信を持って良い。みのりは深呼吸すると、気持ちを強く持った。

 答えないみのりに、美紀の問い掛けが聞こえてきた。

「春香さんは亡くなってしまいました。春香さんの最後の願いを聞いて頂けませんか?」

 ゆっくりと問うた美紀は、みのりの代弁に期待した。

「春香は馬鹿野郎って言いたかったんだよ!」

 さっき吸い込んだ息を、全部吐き出してみのりは叫んだ。美紀はそれを正面から受けた。しかし、みのりを直視したまま首を左右に振った。

 葬儀の時、あの男は黙って頭を下げていた。しかし今、目の前にいる美紀はみのりの罵声を浴びて首を横に振った。

 美紀の目を見れば、春香がそんなことを言う子じゃないと言っているのが判った。当たり前だ。そんなの、みのりにだって判っている。十分判っている。誰の子だと思っているんだ。

「教えてください。ザイルは何故切れたんですか?」

「春香は、春香はこんちきしょーって言ったんだよ!」

 再びの問いに、みのりはまた答えた。質問と答えが全然違っていたが、それはほぼ同時だったので仕方ないだろう。

 それでも美紀は首を左右に振らなかったが、縦にも振らなかった。真っ直ぐみのりの方を向き、失望の眼をみのりに向けた。みのりは悔しかった。こんな女に、春香のことをいちいち言われたくない。そう思った。


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