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piano  作者: 永島大二朗
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ディアノの行方(十五)

 それから一週間、美紀は気まずい日々を送った。祐次は相変わらずひょうひょうとしていたが、その目を見ることが出来なかった。由記は美紀を給湯室に引っ張って行って、何故祐次の家を出てきたのか聞いたが、美紀が泣きそうになったのを見て、それ以上聞くのを止めた。美紀がこんなにおどおどして、そして、いじけている姿など、付き合いの長い由記も、見たことがない。


 由記は、荷物を取りに行く美紀に付いて行くと言ったが、美紀はそれを断った。今回の計画を立てたのは美紀だ。作戦の失敗についての全責任は、自分にあると思っている。

 美紀が祐次の家に荷物を取りに行った時、祐次は美紀を暖かく迎えてくれた。というより普通だった。荷物を運ぶのも手伝ってくれる。普通に遊びに来て、普通に帰って行く様だった。美紀は玄関で深々と頭を下げた。

「じゃぁな」

 祐次はポンポンと美紀の頭を軽く叩く。美紀が玄関を出ると、見送りもなく、扉が直ぐに閉まった。冷たい扉が表していたのは、祐次からの決別の言葉であろう。空白の日誌を読むことができるのであれば、無言の挨拶もチョロいものだ。


 それでも美紀は、祐次のことを諦めた訳ではなかった。今までのことを整理し、祐次に許して貰える方法を考えた。色々考えた。あれこれ考えた。しかし、どれも良い方法とは思えなかった。


 美紀はそういう時、昔から義姉の所に行っていた。長兄の姉は気さくで、何故か美紀のことを、とても可愛がってくれる。美紀にとって、本当の姉の様に感じられた。

 電話をしておいても、突然出かけてしまうこともあるので、美紀は呼鈴を押すまで心配だった。美紀はインターフォンで義姉を呼んだ。

「こんにちは」

「あら、いらっしゃい」

 いつもの様に出迎えた義姉だが、入ってきた美紀は暗い顔だった。それにぺこりと頭を下げ、他人行儀な美紀に、勘が働いたのだろうか。美紀を自宅の仕事部屋に案内することにする。そこなら誰も入ってこない。

 義姉の仕事部屋へ向う途中で、リビングを通り抜ける。呼鈴に反応した義姉が戻ってきたので、テレビを見ていた二人が振り返った。 美紀の長兄と、義姉の父だ。

「お、美紀か」

「いらっしゃい」

「こんにちは」

 兄はまだしも、おじさんは苦手だ。がっしりとした体型のこのおじさんは、昔から怖い顔だ。今は穏やかに微笑んでいるが、怒ったら、それはもう、とてつもなく怖いに違いない。兄は、ヘビに睨まれた蛙の様である。

「元気か?」

「うん」

「そうか」

 そんな蛙と、美紀は久し振りに会話した。美紀は声を振り絞っておじさんにも挨拶をしようとする。

『ご覧下さい。なんて雄大な景色でしょう』

 その時、テレビのアナウンスが聞こえた。二人は同時に振り返ると、グランドキャニオンの映像を凝視する。

 その様子を見ていた義姉が、小さく呟く。

「しょうがないわねぇ」

 何か呆れて言う様に聞こえた。

 ずっとテレビを見ていたのだろうか。もしそうだとしたら、呆れられても仕方ないだろう。

 美紀はさっさとリビングを通り抜ける、義姉に付いて歩く。中庭を望む角の部屋が、義姉の仕事部屋である。


 兄は結構金持ちだったが、この部屋だけは、貧乏の匂いがする。入り口の扉にしても貧乏臭い。二〇四と書かれた扉は、何処かのアパートからひっぺがえして来た様な、感じさえする。義姉はドアを開けると、先に部屋に入った。

 この部屋は、義姉の仕事場にしては狭い。畳敷きの部屋に座布団が二枚。小さな机と、コンセントの抜かれたオルガンが一つあるだけだ。

 先に入った義姉は、机の上にあった写真たてを裏返しにすると、窓を開けてそこに座った。美紀の心とは裏腹に、暖かい午後の光が差し込む。一月でも風のない日は暖かい。暖房も点けずに窓を開けて座るのはどうかと思うが、どうやらそこが、義姉のお気に入りの場所の様だ。


 窓から差し込む逆光で義姉の顔が見えなかったが、美紀は義姉が指差した座布団に座った。隣の机の上には鉛筆が何本かと、古いノートが数冊あった。きっと仕事に使っているものだろう。美紀は人のノートを見るのは、もうこりごりだった。

「誰も入って来ないから、話しな」

 顎で入り口の方を指した義姉が言った。そう言われて美紀は後ろを振り返った。古い扉が見えて、確かに誰も入っては来そうにないが、ペナペナの扉では盗み聞きは出来そうだ。しかし、今家にいる男二人は、テレビに夢中だ。

「はい」

 そう思った美紀は、窓の方に向き直ると下を見て、小さな声で今までのことを話始めた。いつも笑い話をしている時なら割り込んでくる、お喋り好きの義姉なのだが、今日は「うんうん」と頷いたり「それから?」と聞くだけだった。


 どれ位話していただろうか。美紀の話を聞いて、思いの外深刻な話だったのか、それとも自分の経験とすり合せて、大した話ではないと思ったのか、窓辺に座っていた義姉は立ち上がった。

「そういう時はね、どこまでも追い掛けなさい」

 全てを話し終わって涙を拭く美紀に、余り長いアドバイスは無駄だったのかもしれない。顔を上げた美紀の視界はまだぼやけていて、全ての輪郭が正しく表示されていなかった。

 暗くなった外からは、冷たい風が吹き込んでいる。窓を閉めながらやさしく微笑んだ義姉の顔も歪んで見えた。しかしそれは、いつもの冗談染みた顔ではない。

「はい」

 そう返事をした美紀だったが、どうしたら良いのか、それは判らなかった。その日の夜は、兄の手料理を皆で食べて、兄が駅まで送ってくれた。

 兄は、何しに来たのか聞かなかった。ただ車の中で、下らないことをヘラヘラと喋るだけだ。こういう時、鈍感な兄だと都合が良いと、美紀は思っていた。

「降りちゃって」

「うん」

「またおいで」

「うん」

 赤信号で車が止まっている間に降りる様に言われ、美紀は駅の手前で車を降りた。

 美紀は兄の車が一足早くロータリーを回っていくのを眺めていた。そこで、お礼を言っていないことに気が付き、美紀は兄の車に手を振った。手を振る美紀に気が付いたのか、兄は美紀の方を見て、笑顔で小さく手を振ると走り去った。


 何とか間に合った気がした美紀は、安心して深呼吸をした。商店街の明かりが強すぎて、星は飛び切り明るいものしか見えない。澄み切った空気を吸い込むと、体が冷えていくのが判る。美紀は駅へ向って歩きながら、もう一度深呼吸をした。

 不意に、ほうじ茶の香ばしい香りがして、美紀は左を見た。お婆さんが機械を回して、お茶を焙じている所だった。歩きながらその様子を眺めていた美紀は、いつか来た雑誌社の人が言っていた『みのり園』のことを思い出した。


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