ディアノの行方(十四)
年明け早々、引っ越したばかりの祐次の家に、記紀コンビが現れた。手には大きな旅行鞄を引き摺っている。聞けば、成人の日を含めた三連休を有効に使うため、空港に近い祐次の家を『ベースキャンプ』として選んだ、とのことだ。
祐次は『ベースキャンプ』なら仕方ないと思って、二人を家に招き入れた。祐次の家は、引越しの荷物がもう片付いていて、少し生活感が出てきていた。
二人は、祐次を見込んでの行動だったに違いない。押されても押し返さない。押したら謝る。そんな祐次は、後輩に大声を上げるなんてこともない、正に人畜無害な存在だった。
それに、鍵の掛かる空室があることも知っていた。この二人、まったくもって抜け目ない。
祐次にとって誤算だったのは、翌日出かけたのは由記だけで、もう一人の美紀は、そのまま祐次の家に住み着いてしまったことだ。それから既に一週間が経つ。一向に帰る気配がない。祐次は、本当にこのまま美紀が、住み着くのではないかと心配した。
「ねぇ、そろそろ帰ったら?」
冗談にしてはタチが悪いと思いながら、こたつでぬくぬくする祐次は美紀に質問する。
「いいえ。帰りません」
美紀はキッパリと答えた。祐次は頭を掻いた。本当に居座るつもりの様だ。
「日記に、何て書いてあったかなんて知らないけど、帰った方がいいよ」
祐次には、美紀がなぜ押し掛けてきたのか、理由が判っていた。しかし、それを断るのに、何と表現して良いか判らない感情が、心の奥底に渦巻いている。祐次のそんな気持ちも知らずに、美紀は春香の日記を読む様に勧める。
「どうして? ねぇ、読んだ方が良いよ。大丈夫だって」
春香の願いを叶えるべく、美紀は祐次を説得せねばならないと思っていた。そんなつもりで発した一言だった。しかし、祐次の返事は違っていた。
「あぁー、もう。そういう問題じゃないんだよ。端的に言うと帰って欲しい。それだけだよ。君が何と言おうと、日記は読まないし、聞く気もしない」
祐次は二〇〇五年の一月に、本社から飛ばされて来た。季節外れの人事異動に相応しく、おっとりとした感じ。如何にも仕事が出来なさそうな、無気力感に包まれた、会社でも評判の『怒らない人』だった。美紀もそれは知っている。
「意地っ張りですねぇ。春香さんだって変わろうとしたんだから、祐次さんだって」
「違うんだよ。全然違うんだよ!」
苛立つように言う祐次に、美紀は驚いて途中で黙る。
「そこに、みかんの箱が並んでいるだろう?」
祐次が顎で指した先には、いくつかのみかんの箱があった。美紀は頷いた。
「あれは、俺の思い出ボックスだ」
美紀は、うんうんと頷いた。引越しの時、皆で開けて覗いた箱だ。
「あれはな、年末に美味しいみかんを買って、食べ終わったらそこに、色々な思い出を詰めるためのものだ」
「へー。それでみかんの箱なんだ」
祐次は頷いた。
「そうだ。昔は十五キロ入りだったけど、段々十キロ入りになって、最近は五キロ入りだ」
「段々小さくなるんだね」
そう言って美紀はくすっと笑った。祐次は笑っていなかった。
「大人になると美しい思い出は減るものさ。お前らが開けた十五キロ入りのみかん箱はな、『来年は楽しい思い出を一杯作ろう』って言って買った、最後のみかん箱だ。書いてあったか? 日記に書いてあったんなら、知ってるよな?」
美紀はその時の様子を思い浮かべて、何も言えなくなった。祐次は話を続ける。
「でも、ほとんど一人で食った」
祐次はそう言うと、当時を思い出してか少し黙った。美紀が祐次に質問する。
「それからみかん買ってないの? 楽しい思い出を作ろうよ。十五キロ入りを買おうよ」
「馬鹿たれが。お前は何にも判ってないな。お前にはキャベツの箱がお似合いだ」
祐次の一言に、とりあえず美紀は傷付いた。
「えー、酷い。大きければいいってもんじゃないよ」
「じゃぁトマトの箱でも拾ってきてやるよ」
「酷い! いいもん私が買ってくるもん!」
美紀にダンボールのランクは理解出来なかったが、自分が蔑ろにされているのは判った。祐次の声は段々大きくなっている。
「だから、お前は馬鹿たれと言ってるんだ。あのみかんと同じものを買ってみろ。あれはお前、愛媛の秀品だ。その隣は高根の秀品だ。その辺のスーパーに行って、買えるものじゃないんだ。お前なんかその辺で、酸っぱいみかんでも買ってろ!」
美紀は「たかがみかんの箱」じゃないかと思ったが、祐次が余りにも大声で叱責するので、言い返せなかった。
祐次はすっと立ち上がると、春香の日記が入っているみかんの箱を持って来て、こたつの上に置く。美紀は身構えた。祐次は少し落ち着いた様子で、再び話し始める。
「お前たちが、引越しの手伝いをしてくれたのは助かった。嬉しかった。ありがとう。この箱を開けたのも別にいい。中の物を見て笑ったり、人を変態扱いするのもいい。それはもう俺の中で、整理されたことだから」
「ごめんなさい」
「いや、だから謝らなくていい。俺が言いたいのはその後だ。いいか、これは俺の思い出だ。過ぎ去った過去だ。俺はそれを整理するのに二年掛かった」
そう言うと、祐次はブイサインを美紀の前に出した。
「勘違いするな。忘れようとか、封印しようとか、そういうことじゃない。気持ちを整理して、通常の生活が出来るように、努力したことだ。会社で俺は、普通だっただろ?」
美紀は「うん」と小さく頷く。
「その思い出を、お前らは見た。読んだ。笑った。そして、俺に読めと言う。おまけに結婚してくれだの、押し掛けて来て、一緒に住もうだの、何なんだ?」
祐次は拳を美紀の前に突き出して聞いた。美紀は、何も答えられなかった。
「お前らは引越しのプロじゃないから、荷物を落として壊したって仕方ないと思うよ。中身が見えたって仕方ないと思うよ。だけどさ、それを口実に知った事実で、俺にどうこう言っても、俺にとってみれば、大きなお世話なんだよ」
美紀は言われて初めて判った。自分のしていたことが祐次にとってどういうことだったのか。
「俺は思い出を整理すれば、普通に生活出来る。会社だって行ける。裁判所に行って証言だってしたし、まったく問題ないはずだ。自分の時間を使って、思い出を整理したんだよ。春香は死んだ。これは事実。もう帰ってこないのも判ってる」
祐次はみかんの箱を開けた。そして、日記を取り出して扇状に広げた。
「ここに俺や、春香のことが書いてあるんだろう? それで俺のことが判ったか? 春香のことが判ったか?」
美紀は、二人とも優しい人だと思っていた。
「だから、新しい人を見つけて……」
「それがお前なのか? なぁ、俺の思い出に土足で入ってきて、俺の生活をかき回す奴と、俺は恋をしなければいけないのか? なぁ、答えてみろよ!」
美紀は何も答えられない。祐次から目を逸らし、下を向く。
「お前は『春香に似てるから』なんて言ってたけどな、全然違うよ。例え整形して瓜二つになっても、俺はお前になんか惚れないよ。春香はな、頑張っていたんだよ。一生懸命だったんだよ」
祐次は日記をこたつの上にぶちまけた。そして指差す。
「これを読んでみろだって? 出来る訳ないだろう。俺はここに書かれている以上のことを知ってるんだ。あいつがここに書かなかったことまで知ってるんだ」
美紀はうつむいたまま日記を見ていた。
「春香がなぜ山が好きだったか判るか? 日記に書いてあったか?」
「山の景色が綺麗だから」
「違う。全然違うよ」
祐次は首を振り否定した。そして、うつむいたままの美紀に、身振り手振りで話し始める。
「あいつは、山が好きだったんじゃない。山で逢う人が好きだったんだ。お前は山に行かないから知らないだろうけどな。山に行くと、何日も風呂に入らないし、洋服だってずっと同じだ。それでも誰も何も言わないんだ。『あら、昨日と同じですね』とか言わないんだよ。テントで生活していたって、『そのテント、ボロイですね』とか言わないんだよ。名前も聞かないし、住所も電話番号も聞かないし、まして、その人の過去なんて、絶対聞かないんだよ。だけど、困った時は助け合うし、みんな親切なんだ。水を分け合ったり、食料を交換したり、登山道の情報を交換したり、一緒に昔行った山の話をしたり、花の景色はどこが良いとか、同じ山という趣味をもつ者同士が、何の気兼ねもなく過ごせるのが山なんだ。そんな山で出会う、人とのふれ合いが、春香は好きだったんだ」
祐次は一気に喋った。確かに春香の日記に、そんな記述はなかった。少し溜息を吐いて祐次が聞く。
「あいつを家に連れてきたことも読んだんだろ? 理由が判るか?」
「貧乏でかわいそうだから」
その答えに、祐次は両手を腰に当てた。
「な。その程度なんだよ。書いてあるのなんて。違うんだよ。あいつが貧乏なのは、最初から判っていたんだよ。年季の入った登山靴。修理するより買った方が安いだろう。リュックだって補修した跡が一杯だったよ。水筒だってベコベコのやつで、ペットボトルでもないんだぞ? 温泉まで送ってあげたから、タクシー代浮いたはずなのに、風呂上りに飲んでいたのは水だ。水。髪を結んでいたのは輪ゴムだよ? お前、そんな女の子いないだろ」
美紀は黙って聞いていた。
「俺はそんなことを指摘して『あんた貧乏だね』なんて言わないよ。まぁ、単に倹約家かもしれないし。黙って応援するよ。近所まで送るって言ったら、そりゃあ喜んで、じゃぁお母さんにお土産買って行きたいから、どっか寄ってくれって言ったんだよ。そんなこと書いてないだろ? 車で話をして、結構苦労してるんだなぁって思って、応援したくなったんだよ」
母親にお土産を持って行った話しは、あった。
「春香が家庭の事情を話したがらないのは、最初に出会った日に判ったんだよ。あいつ、車の中で疲れて寝ちゃって、寝言言ったんだよ『お母さんごめんなさい』って。おかしいだろ? さっき母親にお土産買うって言っていて、何その寝言。何そのトラウマ。でもあいつは、目が覚めればそんな素振りは見せなかった。頑張っていたんだよ。ずっと頑張っていたんだよ。頑張って、笑顔を見せていたんだよ」
祐次が話しながら右手を振るので、美紀は少し風圧を感じている。
「お礼だって言って、あいつは自分が働いている店に俺を呼んで、奢ってくれたんだ。嬉しかったよ。頑張っていたよ。楽しそうだったよ。それで、山に行くって話をしたら、私も行きたいって言って、お前、テレビ売って、デジカメ買って来たんだよ」
祐次はカメラケースの所へ歩いて行くと、一台のデジカメを持って帰ってきた。そしてそれを、こたつの上にそっと置いた。
「それがこれだ。カメラなら何台もあったのに、あいつは自分でやりくりして買ったんだ。しかも、俺に付いて来たからファミレス首になっちゃって、収入がなくなったときたもんだ。でも、俺と約束した撮影の約束は何とかするって言って、冷蔵庫を売って、携帯も止めて、何もかも売って、白のワンピを買ったんだ。くそっ。俺もそこまでしていたとは気が付かなかったんだ。近所で写真一枚撮って終わりだと思ったんだろうな。サイフも持っていなければ、ハンドバックすらなかった。靴は買えなくてスニーカーだった。後で買ってやったら、そりゃぁもう喜んだが、日記には書いてないだろう?」
美紀は「うん」と頷いた。
「あいつと同じテントで寝た時もな、いびきだけじゃなくて、寝言も凄くてな。『お父さん許して』とか『お母さん帰ってきて』とか、どうするよ? そんな寝言聞いちゃったら? え? どうするのさ? でも、目が覚めたら明るく振舞って。昔のことなんて一言も言わなかった。笑顔で頑張っていたんだよ。だから俺はあいつを、三畳一間のアパートから、家に連れて来たんだ。せめて衣食住は応援してあげようって、思ったんだよ」
祐次は、こたつの日記をバンと叩いた。そしてみかん箱から、猿蟹合戦の絵本を美紀に見せる。
「そしたら、あいつ、子供になっちまいやがった。何も言わなかったけど、両親死んじゃって一人ぼっちだったって判ったよ。おかしいだろう? 二十歳も過ぎた子が、絵本買ってくれだよ? でも、信頼されてるなって思って、嬉しかったよ。一生懸命付き合ったよ」
祐次はそう言って、猿蟹合戦の本をこたつの上にある日記の隣に並べた。
「お前らが変態とか言った日な。あの日、春香は自分の生い立ちについて俺に聞かせてくれたんだ。両親が飲酒運転の車にぶつけられて死んじゃったこと。自分がカメラを壊さなければ、両親は死ななかったんじゃないかとか、色々教えてくれたよ。でも、それが自分の誕生日に起きたことだってのは、言わなかったんだ。それは死んだ後に判ったよ」
祐次は当時を思い出して、頭を掻き毟った。そして、下を向いて続きを話す。
「だから、今になって判る。あいつは誕生日が嫌いだった。誕生日と聞くだけで嫌だったんだよ。誕生日を祝ってくれる両親は、自分が殺した様なものだと思っていたんだ。だから、あいつはクリスマスが好きだった。クリスマスなら両親がいなくても、サンタが来てくれるからな」
祐次はみかんの箱から、くまのぬいぐるみを取り出して、こたつの上に置いた。
「ほら、このくまさん、あいつが施設で最初に貰ったクリスマスプレゼントだ。俺の家に来るときも、これだけは持って来た。寝る時も一緒に寝てた。ずっと大事にしてた。日記に書いてあったか?」
祐次はくまの両手を持ってバタバタさせた後、日記を指差した。
「俺は誕生日がクリスマスの翌日だから、クリスマスは嫌いだった。家でもクリスマスパーティなんてしたことがなかった。あいつが一年でいっちばん楽しみにしていたクリスマスが嫌いだったんだよ! くそっ。あいつは怒ってなぁ。プンプン怒ってた。絶対クリスマスパーティーやるんだって言って怒ったよ。でも、今から思うと、クリスマスケーキ買ってホント良かったよ。楽しそうな笑顔だったよー。それはもう。作り笑いじゃない、愛想笑いでもない、照れ笑いでもない、ほんとーっの笑顔だったよ」
祐次は春香が撮影会のモデルになった時の写真を取り出した。
「これはあいつがモデルとして頑張った時の写真だ。これを見てお前らはかわいいとか言ったけど、俺がクリスマスに見た笑顔は、こんなもんじゃなかった。もっとかわいかったよ。何の不安もない、何かを忘れる為に笑っているんじゃない。ただおかしくて、笑った本当の笑顔だよ。俺はやっと笑ってくれたと思ったよ。このままずっと笑っていて欲しいと思ったよ。毎日クリスマスでいいと思ったよ」
祐次は写真を何度も叩く。
「でも、あいつは笑うのを止めて、言ってくれたんだ。『クリスマスをお祝いするのは今年で最後』って。俺の誕生日を祝うから、もうクリスマスは来なくていいって言ってくれたんだ。俺はあいつに幸せになって欲しいと思っていたけど、あいつも俺に幸せになって欲しいって思ってくれたんだ。嬉しかった。涙が出るほど嬉しかった! だから抱き締めたんだよ。もう夢中だったよ。理性なんてぶっとんで何がなんだか判らないくらいだよ。俺は春香って叫んでいたし、春香は俺の名前だけ叫んでたよ」
祐次はペタンと座ると、頭を抱えた。そのままモゴモゴと話した。
「それで約束したんだ。お前の誕生日も盛大に祝ってやるって。あいつはお祝いなんてしなくて良いって言っていたけど、耳元で『ありがとう』って言って、『誕生日早く来ないかなって』俺に抱きついたんだ。書いてあるか? これに?」
顔を上げた祐次は、箱からゆっくりとザイルを取り出した。
「そこまで愛し合っていた二人を結んでいたのが、これだ」
祐次は話したくなさそうに言った。
「見ろ!」
祐次に言われて、美紀は慌てて顔を上げた。
「これは、あいつが『運命の赤い糸』なんて言って買った、新品のザイルだ。な、三つ編みになっていて丈夫そうだろ? 春香はこの内二本をアイゼンで踏んで切ったんだ。そしてコケた。この赤い糸だけが残って、南の谷に落ちたんだ」
切れた所を祐次が指差した。
「俺は単にコケただけかと思って北の谷に飛んだ。何の躊躇もなかったね。ザイルは切れるはずはなかったし、お互い冬山の経験もあった。アイゼン・ピッケル・ヘルメット、ちゃんと装備していた。俺が飛んだ方の谷は岩が出ていて、二メートル位下の岩に俺は着地したんだ。そしてザイルを確保しながら尾根に上った。そしたらザイルは切れていて、春香はいなかった。伸ばせば十メートル位あったんだよ。ザイルが。俺が落ちた距離が二メートルだとすると、向こうは八メートル落ちたんだ。その上に雪も落ちただろう。あいつはザイルが完全に切れていないと、安心したはずだ。しかし、八メートルも落下したら衝撃は凄い。重装備で加速度が加われば、切れかけたザイルなんてパツーンと切れてしまう」
祐次は両手を広げながら言った。そして頭を抱えた。
「そして切れた。俺が二メートルで止まったから切れたんだ。あいつは一瞬助かったと思ったはずだ。太いザイルを選んで正解だと思ったはずだ! それが切れた。下まで落ちていく三秒の間、あいつは泣いた。くそっ。泣かせちまった。くそっ! 死なばもろともと言っていたのに。あいつは判っていたはずだ。なぜ自分が八メートルも落ちたのか。なぜ五メートルじゃなかったのか。くそっ。岩の上に着地していなければ、ザイルは切れなかったかもしれないんだ。くそーっ! ザイルが切れたら切れたでよかった。二人とも谷の向こうとこっちで笑って落ちた。ザイルが切れたら俺も死んだはずなんだ。くそーっ! 俺はあの時死んだはずなんだ! ちきしょー。そのまま谷底に落ちていたはずなんだ! それが何で俺だけ生き残って、あいつだけが死んだんだ!」
祐次は涙も拭かず、箱からビニール袋に入った赤い万年筆を取り出して置いた。
「ヘリで二日捜したけど見つからなくて、赤いものが見えたら駆け寄ったけど違っていて、名前を叫びながら必死に探したんだ。絶対あいつは寂しがっている。また一人にしてしまった。傍にいるって言ったのに。全然声出なかったけどな。でもダメだった。くそっ。埋っちゃったんだ。半年も放置して、ずっと寂しい思いをしていたんだ。きっとあいつは泣いていた。泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて、あいつはもう骨だけになっていた。くそっ。くそっ。あいつが俺にしてくれた様に、全財産うっぱらっても、俺はあいつを見つけてやりたかった。くそっー。でもダメだった。見つからなかったんだ。あいつが俺にプレゼントしようと思っていた万年筆。それがこれだ。こっちは俺があいつにプレゼントしようと思っていたものだ。互いの婚姻届にサインする為に買った物だ。俺の用意した婚姻届は山頂で破いて捨てちまった。くそっ。破くんじゃなかった。絶対破くんじゃなかった! あの時俺は冷静じゃなかった。絶対が破られた時の対処法なんて俺にはなかった。くそっ。春香の用意した婚姻届はポケットに入っていてな。俺はそれにサインして棺桶に入れてやった。それも書いてあったか? ええ? どうなんだよ。日記に書いてあったか? 全部書いてあったか? えぇ? お前読んだんだろ? どーなんだよ! 答えろよ!」
祐次の半狂乱な大きな声に美紀は驚いて「書いてない」と答えた。
「そうだよな。書いてある訳ないよな。もう春香は死んでるんだし。書ける訳ないよな。でもな、それはな! この新しい日記帳に、全部、書いてあるんだよ!」
祐次が思いっきり叩き付けた日記帳には、春香の字で『中島春香』と書いてあった。それは美紀の目の前を勢い良く通り過ぎ、こたつの下に落ちて広がった。何も書かれていない、白いページだった。
美紀は日記を叩き付けた時の「バン」という音にビックリしたが、うつむいたまま何も言わなかった。祐次は立ち上がると、吐き捨てるように言った。
「な。もう帰れ。お前は帰れっ! くそーっ!」
祐次はみかん箱をこたつに放置したまま、自分の部屋に入ってドアをバタンと閉めた。
しかし、直ぐにドアを開けて、美紀に声を掛ける。
「今日はもう遅いから、明日帰れ」
美紀が振り返らずに黙って頷いたのを見て、祐次はまたドアをバタンと閉めた。
「くそーっ!」
ドアの向こうで、祐次が暴れている。
美紀はそのまま一晩泣いて、始発電車で家に帰った。




