プロローグ(三)
和夫と祐次が、グラスを『チーン』と鳴らして再び乾杯をしている間に、智也が記紀コンビのケーキを持って、ソファーの方まで歩いて行った。
「お前ら、まだ読んでるのかよ」
智也が笑いながら言った。記紀コンビは、くまのぬいぐるみを間に挟んで、二人でノートを見ている。そして時々「キャー」とか「かわいいー」とか黄色い声を上げ、足をバタバタさせていた。
「ありがとー」
「いただきまーす」
ケーキを受け取っても、そのノートは手放さない。もう目が爛々と輝いている。何か特別な物を手に入れた目だ。
智也がテーブルに戻ってきて、ケーキを食べながら和夫・正行・智也が、順番に祐次への質問をして来る。
「先輩、結婚してたんすね」
「あんな可愛い奥さんいたんですねー。知らなかったっす」
「今、実家なんですか?」
「あれだ、子供が生まれるんですか?」
矢継ぎ早に聞かれて、祐次は答えに困った。もう少しイチゴを味わっていたかったが、飲み込んで聞き返す。
「お前ら、愛媛みかんの箱、開けたのか」
「はい、ちょっと倒したときに、中身が見えちゃってぇ」
「そうなんですよ。わざとじゃないです!」
よく見ると、何箱かあるみかんの箱が、全部開いている。祐次はケーキをほおばりながら、仕方ない奴らだと思った。少し目を尖らせて苦言を呈した。
「おいおい、人の思い出ボックスを勝手に開けるなよ。特に中学の通知表は、危険だ」
祐次は照れ隠しに笑った。和夫を筆頭に明確な答えが返って来た。
「英語苦手だったんですねー」
「筋金入りだったんですね」
それを聞いて祐次は慌てた。
「お前ら、見たのかよ!」
「見ましたー」
反省の気配すらなく、そう言って笑った。部活の後輩に貰った寄せ書きとか、夜店で買ってもらったキーホルダーとか、何もかもあからさまになった様だ。
「しょうがない奴らだなぁ」
祐次は笑っていた。記紀コンビの二人が仲良く読んでいるのは、一緒に住んでいた春香の日記だ。マメな性格で、結構な量があった。祐次は、読んだことがない。
記紀コンビは日記を読みながらまた笑う。そして、祐次を見た。
「先輩、ロマンティストなんですねー」
脈略なく言うので、祐次は慌てた。
「な、何が書いてあるんだよ」
「教えてあげましょうか?」
そう言われて祐次は固まった。それは質問に、どう答えるか悩んでいる様に見える。しかし、少し声のトーンを落とす。
「いいよ。別に」
記紀コンビは、その返事が不満だったのか、ページを捲りながら、祐次に話し掛ける。
「えとねー、えとねー」
「何て書いてあるかと言うとねー」
「あー、うるさいうるさい。言わんでよろしー」
そんな気配を面白がってか、記紀コンビの声は更に大きくなった。祐次は笑いながら耳を塞ぎ、下を向く。そして、上目遣いに野郎三人を睨む。
「お前らも読んだのか?」
すると三人は、顔を見合わせて、ニヤニヤするではないか。
「読みましたよ。この! 変態男!」
「スケベ!」
「先輩、激しいっす!」
三人が笑いながら祐次を責めた。祐次は慌てる。
「ちょっとまて、一体、何が書いてあるんだ?」
祐次は大笑いしながら記紀コンビの方を見た。
「見たいですか? 見たいですか?」
意地悪そうに由記と美紀は、祐次と日記を交互に見た。そして日記を顔の高さまで持ってくると、黄色い奇声を上げる。
テーブルにいる男三人は、四つ切に引き伸ばした写真を見ている。それは祐次が、春香を撮影した時のもので、クリアファイルの一ページに写真が二枚づつ入っていた。
手前はモデルの様におすましの顔。しかしその奥は、同じシーンで固い表情だったり、コケていたり、ダメなポーズを採っていたり、肩を落として、疲れた表情をした写真だった。
写真に詳しくない彼らは、それを素手でベタベタ触りながら出し入れしていたが、祐次はそれを黙って見つめていた。
「可愛い人っすよねー」
「これ、凄く綺麗な写真ですよね。モデルさんですか?」
「先輩写真やってたんですね。今度、結婚式の写真、撮ってもらおうかなー」
「ねーねー、いつ帰ってくるんですか? このスケベ!」
祐次は返答に困った。にこにこ笑って頭を掻きながら、何て言おうか迷った。相変わらず記紀コンビは、日記を読みながら笑っている。祐次は口をへの字曲げていたが、口を開く。
「いやー、ばれちゃったかー。いやね、春香は死んだんだ」
笑いながら祐次が言ったのだが、他の五人から笑顔が消える。
「え、ま、まじっすか?」
和夫が目を丸くして祐次に質問した。質問したというより、思わず口にしたという感じだった。祐次はやっぱりしんみりしちゃったかと思ったが、嘘はつけないので話を続ける。
「二年前にね、山で滑落して死んじゃったんだよ。あ、そのザイルがその時のでさー、『運命の赤い糸』なんて言ってたのに、自分で踏んで切っちゃったんだよね。ドジな奴さ」
祐次が春香の真似をして、ザイルを持つ仕草をしたが、誰も笑わなかった。
「酒嫌いだって言っていた癖に『山頂で白ワイン飲もう』とか言い出してさ、落ちたリュックから出て来たのがコレよ」
祐次は少し酔っていた。そして、すっかり空になったシャンパンの瓶を手に持つ。
「あ、同じ物って言うことで、これじゃないぜ?」
春香が持っていた『白ワイン』は割れていて、瓶しかなかった。
「もうさ、お前は白ワインとシャンパンの区別も付かないのかと思ったよ。あはは。ダメな奴だろう? 仕方ないから、誕生日に買ってやったんだよ」
祐次は手に持った空き瓶を、テーブルの上にあるもう一本の横に並べて置く。そして、ラベルを綺麗に揃えた。
誰も口を利かなかった。口を利かないどころか、固まっていた。
由記と美紀は、二人の間に座っていたくまさんを、そっと持ち上げた。そして、両方から同時に人差し指でくまさんを指差す。祐次は懐かしそうに言う。
「そう。それは、春香のお気に入りでね。サンタから貰ったって言ってたなぁ」
祐次だけが皿に付いたクリームを、名残惜しそうにフォークで擦りながら喋っていた。そして祐次が喋らなくなると、誰も喋る人が居なくなった。焼け残ったロウソクを赤い帽子を被った四人が見つめ、クマさんを抱いた二人がノートを持ったまま手を震わせている。
まだカーテンも取り付けていない窓ガラスを、車のライトが何台か照らして行ったが、誰も振り向きもしなかった。
「すいませんでした!」
突然和夫が立ち上がって、祐次に謝った。
「すいませんでした!」
「申し訳ないです」
「ごめんなさい」
「すいません」
他の四人も、和夫に続いて祐次に頭を下げた。春香との感傷に浸っていた祐次だったが、突然のことに現実へ帰ってきた。
「ば、ばか、いいんだよ別に。もう昔のことさ。シャンパンだってお祝いに飲んでくれたほうが、嬉しいよ」
祐次も立ち上がって、五人に声を掛けた。
シャンパンを飲んでくれたのは、正直嬉しかった。これからも増え続けるであろうシャンパン。それを、どうして良いか、正直判らなかったのだ。
「本当にすいませんでした」
和夫が涙を拭きながら、もう一度頭を下げた。記紀コンビも泣き出して、涙が日記に落ちた。慌てて拭く。
「いいって言ってるじゃん」
泣いている人と、笑っている人が同居する、奇妙な雰囲気になっていた。祐次は終始笑顔だった。しかし、その日は、これでお開きになった。ケーキを食べた食器も、シャンパンを飲んだグラスもそのままに、五人は祐次の家を出た。
涙を拭きながら、五人は玄関で祐次に再び詫びた。祐次は気にも留めない様子で笑いながら返した。
「いいんだよ。今日はありがとうな。楽しかったよ」
そこまで言うと、祐次は声を潜めてヒソヒソ声になる。
「それよりお前ら、あの日記を読んだら、春香に殺されるからな。帰り道は気を付けろよ?」
昔、春香が言った時の顔を思い浮かべて、祐次は全員に忠告した。すると五人は、一斉に首を横に振った。祐次はキョトンとする。
「先輩、あの日記、本当に読んでないんですか?」
和夫が聞いた。祐次は顔の前で右手を左右に振った。
「ば、ばか、そりゃぁお前、読んでいる訳ないだろう。俺も片付けている時にパラパラっと見たけど、見ただけだ。読んではいない。えへへ。それに、そんなの読んだら、泣いちゃうだろう」
照れているのか、右手を振りながら勤めて明るく祐次は答えた。
「すいませんでした。シャンパン開けたの俺です」
正行がまた謝った。正行はアルコールなら、何でもOKなのだ。
「いいってば。お前らも、もう泣くな。俺が貰い泣きするだろう」
傍目に見て、祐次がそんな性格とは思えない。しかし、誰も聞いている様子はない。
「先輩、私と結婚してください」
「ちょっとまて、いきなり何言ってくるんだ? ダメに決まっているだろう」
「じゃぁ、私と結婚してください」
「な、何? 俺モテモテ? どうしたんだよ。訳判んないな」
記紀コンビから唐突に求婚されて、祐次は泣くとか泣かないとか、そういうことは関係なくなってきた。頭がおかしくなったとしか思えない。
「先輩、あの日記、読んでも大丈夫ですよ」
慌てる祐次に、目を拭いながら和夫が声を掛けた。他の四人も同調して頷いた。しかし祐次は譲らない。
「馬鹿、あれはお前、『読まない』って約束したんだから、読まないんだよ。好きな人との約束って、その程度なの? ねぇ、お前ら? どうなのよ?」
そう言うと由記と美紀は、声を上げて泣き出した。
「先輩、やっぱり私と結婚してください」
「いえ、私の方が、どちらかと言うと春香さんに似ているので、私とお願いします」
訳が判らなくなって、祐次は半ば呆れた。
「何言ってんだよ。判った判った。お前ら、もう今日は帰れ。な。引越しの手伝いありがとうな。誕生会も楽しかったよ。久しぶりに騒いだよ。ホントありがとな」
祐次は五人を見送った。記紀コンビは最後まで泣き止まなかった。和夫が記紀コンビの背中をポンポンと叩きながら歩いて行って、駅へ向う角を曲がって見えなくなると、黙って部屋に戻った。
そこには騒いだ跡だけが残っている。祐次は少し笑って、まずは汚れた食器をキッチンに片付けた。それから散らかった思い出をひとつひとつ拾って歩く。
四つ切に焼いた春香の写真フォルダーを、愛媛みかんの一番下にして、春香の日記をその上に置いた。その上に、くまさんを置く。ザイルも丸めて隙間に押し込んだ。
ソファーの上にはMiniのキーがあった。雪解けを待って迎えに行った時、リュックのポケットから出てきたエンジンキーだ。捜索費用を捻出する為に、Miniはもう売ってしまっていた。祐次が乗っていた時から、だいぶ年式が経っているので、もう廃車になっているかもしれない。
春香が免許を取った日、とても嬉しそうに運転していたことや、夕日に向かって叫んでいたことを思い出した。自然と涙がこぼれて来て、慌てて目を拭った。そして、避ける様に愛媛みかんの箱に放り込むと蓋を閉じ、箪笥の上に放り投げる。
祐次は、春香と交わした『最後の願い』を、叶えてあげられなかった。他人が聞いたら、他愛のないことに違いない。でも何故か、それが春香にとっては『特別な約束』であったに違いなかった。
思い出して、祐次は歯を食いしばる。そして、ベッドに倒れ込むと、風呂にも入らず、そのまま寝てしまった。