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piano  作者: 永島大二朗
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ディアノの行方(九)

 春香がみのり園を訪れたのは、亡くなる直前の、二〇〇四年一二月二六日のことだった。昨日行われた、クリスマス会の後片付けをしていたみのりに、懐かしい声が聞こえてきた。

「おかーさーん。元気ー?」

 みのりの子供は何十人もいる。しかし、声だけで誰だか判る。みのりは懐かしい声に振り向く。あれっ。そこには小さな車があるだけ。みのりには、誰が来たか判っていたし、その顔だって判る。

 肝心の姿が見えない。一体どこにから声がするのか。キョロキョロするばかりだ。

 すると、小さな車のドアが開いて人が現れる。春香だった。それを見て、みのりは驚きの声を上げた。

「あんた、免許取ったの?」

「えへへ。いいでしょう。ホラ! これだよ!」

 春香は取り立ての免許をみのりに見せた。嬉しそうに笑う春香の顔とは全然違う、とても緊張した顔が写っている。みのりは、苦笑いをして春香を見た。

「酷い顔だね。もっとかわいく撮ってもらえば良かったのに」

「そうは行かないんだよ!」

 自動車事故で両親を失った春香が、免許を取って運転しているのが意外だった。みのりはみんなで出かける時、バスさえ嫌がっていた春香を思い出す。就職活動では、免許がなくても大丈夫な所を一緒に探したりもした。

 その春香が免許を取ったのだ。みのりは歩きながら思った。免許を取るなら取るで、もっと早く取れば良かったのに。一言言ってやろうかと思ったが、春香が矢継ぎ早にお喋りをするので、みのりが口を挟む隙がない。笑いながら二人は寮母室に入った。

 春香がここに来たのは半年振りだ。


「どっこいしょー」

 みのりが大きな声でこたつに入った。そして点けっ放しだったテレビを消す。

「お母さん、また殺人事件見てたの? 好きだねぇ」

 春香が声を掛けると、みのりは「再放送だって、面白いものは面白いのよ」と言って笑った。

 春香はいつになく上機嫌で、みのりの反対側に座っていた。にこにこと言うより、にやにやしていた。それは判っていたが、みのりは半年前に約束したことを、春香に確認する。

「あんた、この前はお礼状、出したんでしょうね?」

「うん。出した。出した」

 それを聞いてみのりは安心した。やはり春香は良い子だと思った。

「そうかい。やっぱりお世話になったら、お礼状の一つも書けないと、お嫁に行けないよ?」

「うん。えへへ」

 春香は荷物を横に置いて、両手をこたつの中に入れると、そのまま肩までこたつ布団をたくし上げる。いつもそうしていた。

「なんだよ、気持ち悪い笑いだね」

 しかし、みのりはピンと来た。そう、春香も年頃なのだ。

「あんた、男が出来たね?」

 みのりの言い方は、ちょっと下品だったが当たっていた。春香は目尻を下げてにやつく。そこからは、母と娘の気楽なヒソヒソ話が始まった。みのりはこたつの中で、春香の足を突っ突きながら聞く。

「どんな人? どんな人だい?」

「とてもいい人だよー。面白いし。私はね、この人の傍に一生付いて行くことに決めたよ」

 こたつ布団に顎を付け、にこにこ笑いながら春香は言った。もう大きくなったので、こたつ布団の隙間から冷たい風が入ってくる。しかし、みのりはそんなことを気にしてはいられない。

「そうかい。それはよかったねぇ。結婚式は挙げるのかい?」

 そう言うと春香は、首を横に傾けると平然と言う。

「それはもっと貯金しないとダメだねぇ。でもいいんだ。写真なら一杯あるから」

 春香はこたつから両手を出すと、横に置いた鞄から、一枚の大きな写真を取り出した。みのりは、結婚式は挙げて欲しいと言おうとしたが、出てきた写真を見て驚く。

「あら、これ、なんだい? 綺麗だねぇ。お見合い写真かい?」

 それは、雑誌とかで見る様な写真で、そこに写っているのは、普通モデルさんである。しかし、そこには目の前の春香が写っていた。

「違うよ。私がモデルをした時の写真だよ」

「あんた、モデルになったのかい! そうかー」

 モデルなんて女の子が憧れる職業の一つだ。それに就いたなら、もう安心だ。みのりは一瞬の内に、そう思った。

「ううん。もう引退した」

 にこやかに言う春香の言葉に、みのりはコケた。しかし、直ぐに立ち直って、春香に言う。

「まぁ、いい人なら良かったねぇ」

 みのりは、もう一度写真を見る。春香がモデルねぇ。へー。

「そうよ。絶対離さないわよ。ほら、見て! このザイルを!」

 春香は買ったばかりのザイルを取り出して、右手に握り締めると高く掲げた。みのりは何のことだか判らない。

「見て! これが『運命の赤い糸』よ!」

 みのりはお茶を吹いた。

 そして、そのザイルを取上げる。ポンポンと重量を測ると、春香に言う。

「あんた、随分太いの買ったわねぇ。重いわよ?」

「いいの。いいの。これなら絶対、切れないわよ。オホホ」

 春香は右手を、おばさんっぽくパタパタさせた後、口にあてて笑った。みのりは苦笑いをして返す。

「何、すると、旦那も山男?」

「そうよ。お礼状出したらファミレスに来てくれて、今は一緒に住んでるの」

「ええっ! あんたも変わったわねぇ……」

 春香を山に連れて行ったのはみのりだ。と言っても、最初は皆でキャンプに行っただけだ。そこから山歩きをしたり、低い山に登ったりした。他の子供達は、段々ときつい山には行きたがらなくなったが、黙々と歩き続ける登山が気に入ったのか、春香だけが行こう行こうと、みのりに縋った。


 春香のお気に入りは、雪のドームを作ってそこで食事をすることだった。いくら昔は鳴らした山女であるみのりでも、年と子供たちのことを考えると、段々春香に付き合えなくなっていたのだ。

 それにしても、みのりの記憶にある春香と、目の前にいる春香はまるで別人だ。少しがっかりし、そして、とても嬉しかった。


 春香は、みのりがそんな思い出に浸っているとは気が付きもせず続きを話す。

「そうよ。私は変わるのよ。今までの、泣き虫春香ちゃんは、もう返上よ」

 その言葉に、みのりは安堵する。ただ、一つ心配なことがあった。

「あなた『いびき』はまだかくの?」

「かくんじゃない? でも、彼は何とも言わないわ」

「そうかい。そうかい」

 みのりはホッとした。昔から春香のいびきは凄い。一緒に寝ている子供たちから部屋を追い出されて、一緒に寝ていたみのりが一番良く知っている。

「それで、いつ結婚するんだい?」

「それは、まだ判らないんだなー」

 その言葉にみのりは不安になる。

「判らないって、どういうことよ。あんた、ぐずぐずしてないで、パッと籍入れなさい」

「えへへ。それをお願いしに来たんだよ」

 春香は鞄から婚姻届と、赤い万年筆を出す。そして、こたつから出て正座に座りなおした。

「お母さん、私の証人になって下さい」

 春香はみのりに深深と頭を下げる。そして、買ったばかりの赤い万年筆を、みのりの前に差し出した。

 みのりは少し涙が出たが、とても、とても嬉しかった。

「そうかい。そうかい。嬉しいねぇ。そうかいそうかい。あら、随分と洒落た物を持っているねぇ。どうしたんだい?」

 キラキラ光る赤い万年筆を手に持って、みのりは春香に聞いた。春香は満面の笑みを浮かべ、得意げに答える。

「特別な書類にサインする時は万年筆だって言うから、買ったんだー」

 春香は、もそもそとこたつに戻る。そして、再び肩までこたつ布団を捲り上げた。みのりは口を尖がらせる。

「洒落たこと言うねぇ。高かったんじゃない?」

「そうよ! だからこの書類に、絶対サインしてもらって、受け取って貰うのよ」

 春香は今入れた両手の内、右手だけを出して、こたつの天板を叩く。みのりはそうかそうかと頷いて、万年筆を持つと、何処にサインをすれば良いのか探すため下を見る。そして、不思議に思った。よく見ると、結婚する本人のサインがないことに気が付いたからだ。

「あら、あんた、旦那の名前がないじゃない?」

「えへへ。まだ言ってないの」

「馬鹿! 証人が先にサインするのかね!」

 みのりは顔を上げて、恥かしそうにもそもそしている春香を叱った。春香は笑いながら、泣きそうになってこたつを飛び出すと、みのりの隣に来た。そして両手を顔の前で合わせ、お願いをする。

「えー、サインしてよー。山頂で調印式やるんだからさー。お母さんも来る?」

 春香は、悪巧みの一部をみのりに打ち明けた。みのりは「しょうがない子だねぇ」と言って、しぶしぶサインする。春香は作戦成功を確信して、とても満足した顔になっていった。

「あの人、恥かしがり屋さんだから、バンって突き付けてあげるのよ。うふふ。でも、振られたらどうしよう」

 笑いながら、ほんの少しだけ不安な胸中を露呈する。みのりは春香を抱き寄せて、肩をポンポンと叩く。

「春香を振った男なんて、私が許さないよ。地の果てまで追い駆けて行って、ぶん殴ってやる」

「こわっ! 山女に惚れたらいけないよ?」

 二人は笑った。


 みのりは、もう少し春香を抱きしめていたかったが、思い出した様に立ち上がった。春香に、ちょっと待つように言って部屋を出ると、一本の瓶を持って戻ってきた。

 春香はこたつに入らず、そのまま待っていた。

「なーに? それ」

「これはシャンパンだよ。昨日クリスマス会やってね。その余りさ」

 寄付で貰ったのだが、子供達にアルコールを飲ませる訳には行かない。そのまま冷蔵庫に入れられていたのだ。みのりはラベルに書かれたフランス語を、指でなぞりながら春香に教えた。他の単語は何て書いてあるのか判らない。

「シャンパンって何?」

 春香から発せられた言葉に、みのりは驚いた。

「あらやだこの子は。シャンパンも知らないのかね。まぁお酒嫌いだからしょうがないか。シャンパンはね、炭酸の入った白ワインさ。覚えときな」

 そう言いながら、ドンとこたつに置く。多分みのりも、シャンパンの扱いには慣れていない。春香は珍しそうにラベルを覗き込む。

「へぇー。白ワインか」

「スパークリングワインじゃないよ? これはシャンパンさ。高いんだよぉ」

「へー。へー」

 素っ気ない春香の返事に、みのりは少しがっかりした。

「なんだ、あんまりありがたみがないみたいだねぇ。これはお祝いの時に飲むんだよ。さぁ、持って行きな。それで、旦那と乾杯しな。断ったら、これでぶん殴っておやり」

 みのりはシャンパンの瓶を軽々と持ち上げると、春香に渡した。流石に、振り回したりはしない。

「おぉ、そうなんだ。ありがとうお母さん! じゃぁこれも山に持って行こう!」

 お祝いの品と判って、春香の反応が変わる。それを見て、みのりは放出した甲斐があったと思ったのだが、山に持って行くには、大きいだろうと思う。

「あんた、これ、丸ごと持って行くのかい? 重いよ?」

「大丈夫だよ。重たかったら、水筒に入れて持って行くから!」

 春香は腕をまくって力瘤を作る。

 みのりはそれを聞いて、名案だと思った。

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