ディアノの行方(七)
由紀夫は早苗を後部座席に乗せるとドアを閉め、自分は運転席に座った。ギアを入れて車を発進させると、もう一度時計を見る。予定より少し遅れていた。
その日は亜希子の元夫、斉藤秀雄に一度娘の早苗を返すことになっていた。斉藤は昨日まで行われていたピアノコンクールの結果発表を、早苗に見せたかったのだ。駅前で亜希子と待ち合わせることにしていた。
しかし早苗は、厳しいピアノの先生でもある父と過ごすより、今夜行われる妹の誕生会の方が良かった。
「ケーキ、何時に取りに行けば良いんだっけ?」
由紀夫が亜希子に聞いた。
「四時よ。忘れたら、春香怒るわよ」
「私も怒るわ!」
後ろの席から早苗の声がした。三人は笑った。
「忘れないよ。ちゃんと取りに行くよ」
由紀夫は前を見て答える。由紀夫の『ちゃんと』の信頼性はイマイチ低かった。
「貴方、カメラに夢中になると、直ぐ何でも忘れちゃうんだから」
「だって、新発売のライカだぜ? それで春香をいっぱい撮ってやるんだ」
亜希子はため息を吐いた。
「もう、なんでそんな高いカメラ買ったのよ」
「いいんだよ。このカメラは一生物だ。百年経っても大丈夫さ。これで春香がお婆さんになるまで、大丈夫なんだぜ?」
「馬鹿ね。誰が撮るのよ」
亜希子は笑った。由紀夫は上機嫌だった。早速入れたフィルムも、さっき全部撮り終わった所だ。バックミラーを見ると、早苗が面白がって弄っている。バックミラー越しに由紀夫と目が合う。早苗はライカのファインダーを覗いた。
「はい。チーズ」
早苗の声に由紀夫は「ニー」っと笑った。
「やっぱり三本パックにしておけば良かったな」
そう言って笑った。
道路は少し混んでいる。由紀夫は、もう一度時計を見た。
「早苗ちゃんを迎えに行くのは何時?」
「そうねぇ、二時位でいいんじゃない?」
由紀夫は頷いて答える。
「そうか。それじゃぁ、春香のケーキと一緒に取りに行くか」
「嫌ねぇ。ケーキと同じ扱いなの?」
語尾がおかしくて亜希子は笑った。早苗は笑っていない。
「私、お父さん嫌い」
「あら、そんなこと言うもんじゃないわよ」
離婚した母親が言っても、イマイチ説得力が欠ける。
「そうだぞ。早苗ちゃんのお父さんは、一生懸命ピアノを教えてくれるんでしょ?」
由紀夫がやさしく早苗に言った。しかし、早苗には判らない。
「ピアノなんて嫌い。私、お母さんと住みたい」
足をバタバタさせているのが亜希子には判った。早苗は、弱音を吐いたり、ダダを捏ねる子ではなかった。
「何を言ってるの」
亜希子は、早苗に掛ける言葉が見つからない。
「あなたは裁判で、お父さんが育てることになったのよ」
そんなことは子供にとって、何の説得力もないことを亜希子は承知していた。しかし、今はそうとしか言えなかった。
「ねえ早苗、貴方、来年エリーゼのために弾くんでしょ? 楽しみにしていたじゃない。お父さんみたいに弾くって、言っていたでしょう?」
真由美は後ろを振り返って、早苗に声を掛けた。
「嫌だ! お母さんと住む! お父さんなんて嫌い!」
そう言って早苗は、亜希子から目を逸らす様に、後部座席へ顔を沈めて寝転んだ。由紀夫と亜希子は顔を見合わせて困った顔をした。斉藤に、あまり厳しく指導するなと言う位しかできないが、それは無理だということを、亜希子自身が良く判っている。
「お母さんと住むんだったら、おじさんを『お父さん』って呼ばないといけないんだよ?」
由紀夫が言った。バックミラーを見たが、早苗からの返事はなかった。由紀夫はにやっと笑って亜希子を見る。
今までに、何度か早苗は山本家に遊びに来ていたが、確かに由紀夫のことは『おじさん』と呼んでいた。人混みでは『ねーねー』と呼んだ。正直、何て呼んで良いか判らなかったのだろう。
由紀夫はピアニストではなかったので、早苗が怖がることはなかった。ちょっと冗談が好きな、おじさんだった。
それでも亜希子は「馬鹿ね」と小さく言った。
「ここを左だったな」
丁度信号が青になったので、由紀夫はアクセルを踏んだ。そして左にハンドルを切った。
「キャー!」
「あぁー!」
その声を早苗は後部座席で聞いた。それはゴキブリが出た時よりも凄い叫び声だった。しかし、考える間もなく体全体に衝撃が走って気を失った。
亜希子は、自分に向かってきた車の運転手が、誰だか判らなかった。向こうも、余りにも凄い恐怖の顔だったからだ。
数秒前、斉藤は時計を見て、変わったばかりの赤信号を突っ切ろうと思った。アクセルを踏んで加速すると、突然フライングをして横断歩道を渡る親子が、左から前に出て来る。
咄嗟にハンドルを右に切ったが、スピードが出過ぎていた。そのまま、曲がってきた車と正面衝突した。
斉藤は直ぐに意識を取り戻した。そして車のドアを開けて外に出る。斉藤がぶつかった車は、昨日自分の娘を預けた、山本夫妻の車だった。そして、自分の娘を送って来てくれるはずだった。
待ち合わせの場所へ向うのではなかったのか。なぜそこにいるのか判らない。いや、自分もなぜそこにいるのか、何故自分がこんなことになっているのか、それが判らなかった。
後部座席のドアが開いていて、道路に子供が転がっていた。早苗だった。通行人が早苗を介抱していて、意識もある様だった。斉藤は少し安堵する。
車の方は、山本夫妻がシートベルトを着けたまま座っていた。意識はあるようで動いていたが、抜け出せない様子だ。急いで斉藤は助手席のドアを開けようとした。しかしドアは開かなかった。歪んでいたのだ。良く見ると乗用車のボンネットが、とても短くなっている。
「くそっ、はさまっているのか!」
斉藤は何とかドアを開けようとした。しかしその瞬間、斉藤は熱風と共に後ろに吹き飛ばされた。ボンネットの下から漏れ出したガソリンに引火した炎だった。斉藤は直ぐに起き上がると、車に走り寄った。車の中から男女の叫び声が聞えた。斉藤は助手席のドアノブに手を掛けた。その時「ジュー」という音がして左手に激痛が走った。しかし、そのままドアノブを放さなかった。
「亜希子!」
斉藤はドアノブを引きながら車を叩いたが、中からもう声はしなかった。
「亜希子!」
もう一度叫んだが同じだった。車の中で手を握り合い、肩を寄せ合う二人の姿が見えただけだった。
「あんたも死ぬぞ!」
通行人に突き飛ばされて、斉藤はその場から引き離される。しかし、不思議と斉藤には、その言葉の意味が判らなかった。
「亜希子! 亜希子!」
引き摺られながら斉藤は叫んでいた。五メートル程下がると、斉藤を掴んでいた手が緩んだ。斉藤は再び前進することができると思った。
その時だった。後ろから「お父さん! お母さん!」という金切り声が聞こえる。その声に、斉藤は我に返った。
そして振り向くと同時に、斉藤の横を駆け抜ける。
早苗だった。
状況を素早く理解した斉藤は、早苗を追いかけた。早苗は叫んでいたが、その視界に斉藤はいない。車の方を見ている。斉藤は走って行って、早苗をしっかりと抱きしめた。数秒前の自分と同じ様に、叫びながら暴れている娘を、火から離さなければならない。
「お父さん! お父さん! お父さん!」
抱きしめた腕の中で、早苗は暴れていた。車の方に手を伸ばし、狂った様に泣き叫んでいる。
斉藤も、気が狂いそうだった。




