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piano  作者: 永島大二朗
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謎の調律師(十四)

 増田は適当に椅子を持ってくると、そこに座って、真由美の方を見た。

「どうして帰っちゃったと、思います?」

 それは、検討しましょうという感じの問い掛けだった。真由美は少し考えたが、理由は一つしかない。

「ここの常連客は、マスターの演奏を聴きに来てるんでしょう? 私だから帰ったんです」

 増田は、なるほどという感じで頷く。そして、割と早く出た結論に対し、真由美に確認を求めた。

「その理由で良いのですか?」

 そう言って増田は、ゆっくりと右手を増田自身の胸にあてると、言葉を続ける。

「理由は、私にあるという結論で、よろしいのですか?」

 そう言われて真由美は悔しくなった。頭に血が昇って来るのが判る。次に「はい」と言っても「いいえ」と言っても、自分が恥を掻くだけだ。真由美は下を向いて黙っていた。自分の導き出した答えに対する、最後の結論が出せなかった。


 真由美が両手を握り締めて顔を上げると、増田の顔は少し怖い顔をしていた。しかし、直ぐに穏やかな顔に戻る。

「貴方は、ここに来た当初の目的である、斉藤の弾き方を習得しました。それで良しとしますか?」

 増田は真由美を直視した。増田の目は、今までにない冷たい目だった。真由美は声が出ない。手を強く握って、うつむいた。

「じゃぁ最後に、エリーゼのためにを弾いてみて下さい」

 真由美はピアノに向かうと、黙って弾いた。弾きながら真由美は確かに、あの時、あの場所で、斉藤が奏でていた音だと思った。しかし、これで斉藤という男に、並んだとは思えない。この弾き方を習得さえすれば、用がない人間の一人と、考えていたはずだった。ところが、むしろ背中は遠ざかる。そう思えてならなかった。

 最後に斉藤を見た後姿と足音が、真由美の心に蘇る。真由美があの時感じた『差』とは、この差だったのだ。


 真由美は、斉藤と増田を比較していたが、増田も、斉藤と真由美を比較していたのだ。真由美は自分も最初にエリーゼを弾いたのだ。よりによって、斉藤の真似をして。今から思えば、とても恥かしいことをしたと思う。そしてあの時増田は『よく判った』と言った。その時点で、駄目との烙印を押していたのだ。


 真由美は、増田の演奏を思い出すことが出来なかった。斉藤より下に見ていた、というのもあるだろう。それに増田は、営業時間内にはピアノを弾かなかったからだ。今から思えば、最初にSlowtimeへ来た時の、射す様な視線の意味が判る。あの常連客達は、増田の貴重な演奏を楽しみにしてたのだ。それを、真由美に邪魔されまいとする、気迫だったのだ。

 そこまでして、聞きたいピアノだったのだ。


 真由美は短い曲の間、ぼんやりと考えていた。曲想も何も考えてはいなかった。目で指を追い、ただ弾いているだけだ。しかし、弾き終わった真由美に対する増田の一言は、思いの外暖かかった。

「良くなりましたよ」

 増田はにこやかに言った。真由美は両手を膝の上に戻すと、軽く頭を下げた。

「お疲れ様でした」

 増田は吐き出すように、もう一言添えると立ち上がり、椅子を残してカウンターへ消えた。そのさばさばとした言い方は、真由美がここへ来る理由が、なくなったことを意味している。

「クビ……なんだ……」

 真由美は悔しさの余り呟いた。

 確かに自分のピアノは、良くなったはずだった。斉藤が弾いていた音と同じ音を得た。それは増田の保証付きだ。間違いない。

 しかし、何かを失った。真由美は黒光りする床を眺めながら考えていた。所々にある節が、真由美の心を写している。ゆらゆらとする気持ちを落ち着かせ、冷静になれば判るはずだ。

 真由美は、何を失ったのかを考えていた。それが斉藤に追いついていない理由だからだ。明らかにある斉藤との差。それを埋めるものは、ゼロ距離打鍵と同じく、自分の中に存在しているはずだ。もう一度自分を見つめ直せば判るに違いない。真由美は立ち上がった。


 ピアノの後ろにある扉を開けると、事務室に置いてあるバックを取る。そこへ、カウンターの方から入ってきた増田が、茶封筒を持ってきた。それが給料であることは判ったが、金額なんて、どうでも良かった。ぺこりと頭を下げて茶封筒受け取ると、それをバックに入れて、再び扉から出た。

 さっき弾いたピアノが、静かにそこにある。真由美は涙がこぼれ落ちる前に、早く帰りたかった。だからピアノの蓋も閉めず、そのまま通り過ぎた。カウンターの前で再び増田に礼を言った。増田は笑顔でお辞儀をしただけだった。


 真由美が扉を開けると、カウベルのチリンチリンという音がした。そこで真由美は立ち止まると、扉を開けたまま振り向いた。

「あのう、斉藤さんって、何者なんですか?」

 増田はそれを聞いて、答えるのに困った。そして、時の流れは意外と早いのだということを実感する。斉藤を知らない者が、いたからだ。

 増田は答えるべきか悩んだ。それ以上に何て答えるか悩んだ。しかし、女の子から要求される最後のお願いにしては、割と叶え易い部類に入ると思った。

「かつて……、天才と言われたピアニストですよ」

 もう少し何か付け加えようとしたが、それは止めた。真由美が斉藤に興味をもったならば、調べれば、直ぐに判ることだ。

「そうですか。そうだったんですね」

 真由美は納得した。納得することにした。火傷を負った、悲劇の天才ピアニストの演奏を、たまたま聴いてしまったのか。増田がこれまでに語った言葉を思い出しながら、納得することにした。

 真由美は、斉藤の歴史には興味がなかった。目の前にあるものだけが真なのだ。

「ありがとうございました」

 真由美は、もう一度頭を下げて店を出た。増田は黙って頭を下げた。


 カウンターから真由美が見えなくなるのを待って、増田は店の電気を消した。そして、電話に手を掛けたが、止める。代わりに、ガラスのコップに売れ残りのアイスコーヒーを注いで、奥の椅子に座った。一度、大きなため息をして、それを一気飲みする。

 飲み終わってまた、ため息を吐いた。

「師匠も、色々と押し付けるなぁ」

 片目を瞑りながら、頭を掻く。

 昔のことを思い浮かべ、少し笑った。


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