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piano  作者: 永島大二朗
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謎の調律師(十三)

 翌日は清々しい天気だった。少し後ろめたい感じはしたが、響子には内緒で、真由美はSlowtimeへ向かう。早く増田に自慢、いや報告したい。タクシーを降りた真由美は、誰も居ない店内に飛び込む。

「おや、今日は早いですね」

「マスター、ちょっと聞いて下さい」

 真由美は挨拶もそこそこに、増田に話しかけた。誰も居ない店内で増田は、ラジオを聞いていた様だった。『昨日成田空港に』で始まるニュースは、響子が帰国したニュースだ。真由美は今朝自宅のテレビでそれを見たので、原稿の出だしでそれと判った。

「判りました。行きましょうか」

 ラジオが丁度『ピアニストの新田』と言った所で切れる。真由美はピアノの所へ行きながら、増田にニュースの続きを説明した。

「昨日、母が帰って来たんです」

 真由美が増田の後ろから、嬉しそうに声を掛けた。

「そうですか。良かったですねぇー」

 増田は振り返って微笑んだ。しかしそれは、帰って来たことを喜ばしいと思う相槌。まるで、刑務所から出てきたのを喜ぶかの様な、そんな感じだ。そして、それだけだった。真由美はそうじゃなくて、演奏旅国から帰って来ただけで、ニュースに出る母を自慢したかったのだ。増田にはそれが判らないのか。真由美はちょっと膨れた。


 増田はそのままの笑顔でピアノの天板を開けると、真由美に小さく「どうぞ」と言って、鍵盤の前を指した。真由美は自分で鍵盤の蓋を開けると、椅子に座る。そして、スカートの裾をパタパタと纏めると、ゆっくりとドの所に指を置く。

 真由美は増田の方を向くと、そのまま人差し指に力を入れる。

「トーン」

「そうです。その音です」

 ゼロ距離からの打鍵を示すと、増田は頷いた。にっこりと笑って真由美を見る。

「簡単でしょ?」

「ええ」

 少し嫌味とも言える増田の問いに、真由美は少しだけトゲのある言い方で返す。それでも真由美は、一歩前進したと感じた。斉藤に追いつけるような気がした。


 しかし、直ぐに思い直す。彼はただの調律師。プロの自分が目標とする人物ではない。かと言って、目の前の増田でもない。真由美はプロとして新人ではあったが、トップランナーなのだ。トップランナーのライバルは時計だけ。つまり、自分自身との戦いなのだ。

 それにしても最近真由美は、増田との距離感を感じていた。真由美が知るピアノの先生は響子だけである。もちろん響子の弟子で、ピアノの先生になった人は沢山いる。その人達に真由美は逢ったことはあるが、ピアノについて教わったことはないし、あれこれ言われたこともない。


 強いて言えば、大学の教授もピアノを教わった先生には違いない。しかし、教授も響子の後輩。口うるさい母に比べれば、教授の指導なんて、大したことはなかった。

 確かに教えを請うたのは、真由美の方からだったが、それは斉藤に対してであって、増田にではない。増田も増田で、斉藤に言われて渋々しているのだろう。それは何となく判る。しかも斉藤と比較されて、下に見られていると感じているのだ。


 真由美はそう考えたが、それ以上の何か、この増田との距離感は言い表せぬものがあった。

「嫌われているのかしら」

 真由美はカウンターに戻っていく増田の後ろ姿を見ながら思う。一度聞いて見れば、直ぐに判ることだ。でも、増田が、いつもの様に間抜けな調子で「はい」と答える様子を想像すると、無性に腹が立った。


 その日の真由美が奏でるピアノは、軽やかだった。それを増田は感じ取ったらしく、上機嫌でいる。しかし、喜んだのも束の間だった。

 夕方の演奏が近付いていた。常連客は、毎日同じ顔ぶれという訳ではなかったが、それでも以前、真由美の演奏を聴いたことのある客がいた。

 真由美は忙しく水を運んだり、オーダーを取ったりして、一応店員であることをアピールする。しかし、オーダー票に記入した注文と同じ品物が、カウンターに戻ろうとする真由美とすれ違った。


 真由美は人気のないカウンター席の隅に座ると、今日の演奏を何にするか考える。同じ曲を演奏してはいけないと思う。今週まだ弾いていない曲を選び、ゆったりと弾く姿をイメージし始めた。

 増田が目で合図したので、カウンターに戻る増田とすれ違う様に真由美がピアノに向う。そして、ピアノの前に座ると深呼吸をして、さっきのイメージ通りに弾き始めた。


 その時、真由美には信じられないことが起きた。なんと、一曲目で帰り始めた客がいたのだ。いや、正確には、真由美がピアノに向かった時点で、コーヒーを飲み干した客のことだ。つまり、真由美の演奏を、はなから聴く気がないことの意思表示だ。

 真由美が夕方に、ピアノを弾き始めてまだ三日目だ。今日の真由美は昨日の真由美とは違うのだ。さっきまでの自信は打ち砕かれた。


 もう今日は、絶対弾きたくなかった。何か、ここで弾くピアノは、真由美には合っていないのだ。そう思えてならなかった。もしかすると、増田が常連客に裏で指示を出しているのか? とも考えた。怪しいチョビヒゲで、表向きは穏やかに話しているが、腹の中はドス黒い物が渦巻いているに違いないと思う。ここからは見えないが、カウンターの中から、ブロックサインを出していてもおかしくはない。きっとマスターは、それ位する男だ。

 それでも残ってくれた客のために、真由美はピアノを弾いた。少しだけ憎しみを込めて。こんな気持ちでピアノを弾いても、楽しくはないと思いながら。


 四日目の今日、真由美は遂にピアノを弾くことがなかった。店の看板をCLOSEにして、よろい戸が閉まった時、増田が「ちょっと買い物に行って来ますね」と、真由美に声を掛けた瞬間、どやどやと常連客が帰ってしまったからだ。

 誰も真由美の方を見なかったが、それがかえって真由美には辛すぎる。そして、誰もいなくなった店内で、増田の帰りを待った。何分経っただろうか。真由美は頭を抱えて椅子に座っていた。

「あれ、ピアノ弾かなかったの?」

 紙袋を持った増田が裏口から帰って来て、真由美に声を掛けた。ヒョイと覗いて、直ぐに冷蔵庫の方に行ってしまった。

「みんな帰っちゃったんです!」

 真由美は、増田の明るく言う言葉が感に障った。つい大声で言い返す。増田は真由美が怒っていることは判ったが、それは自業自得だと思っていた。紙袋の物を冷蔵庫に入れながら、明るく答える。

「あはは。そうですか」

 増田の計略に引っ掛かったと思っている真由美は、明るく笑う増田に対し、怒りが爆発した。いや、心の中では、増田に怒りをぶつけることが筋違いであることは判っている。判っているがしかし、言わば増田の店の増田の客、増田のファンに、自分の演奏を無理に聴かせようとしている企みが、見え見えだ。

「あははじゃないでしょう!」

 真由美は泣きたかった。悔しくて、情けなくて。そして、自分のファンであれば、お金を払って聴きに来てくれるのにと思った。

「まぁまぁ、落ち着いて。そこにお座りなさい」

 カラッポになった紙袋をポンと叩くと、増田はピアノの椅子を指差した。真由美は言われるまま椅子に腰掛けたが、ピアノの方を向かなかった。

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