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piano  作者: 永島大二朗
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謎の調律師(十二)

 翌日、真由美は気合を入れて夕方に臨んだ。

 昨日の反省から、一曲目は五分程度の小曲にして、二曲目も素人でも知っている様な曲を選ぶ。その甲斐あってか、拍手はなかったが、二曲目まで誰も帰らない。横目で客席の方を確認し、自信を持って三曲目を弾く。

 しかし、三曲目になって客が帰り始める。真由美は平静を装っていたが、内心は打ちひしがれていた。三曲目が終わった時、また誰もいなかった。時計を見ると、昨日より時間が早い。


 四曲目は弾かず、代わりに鍵盤をバンと叩いた。そして、無言のまま奥へ行くと、バックを取ってカウンターへ向かう。

「あれ、もう良いんですか?」

 増田の呼びかけに、答える気もない。悔しくて涙が滲んで来る。

「失礼します」

 挨拶だけして、真由美は帰ろうとした。

「新田さん」

 背中から増田の声が掛かった。呼び止められた理由が判らない。掃除も皿洗いも終わっているはず。もう電気を消すだけだ。それとも、何か批評を貰えるのか。そう思った真由美は、少し期待して足を止める。

「ピアノに、ビンタしないでね。拗ねるから」

 真由美は早く帰ることにした。背中を向けたまま「はい」と答えてSlowtimeを出る。「ビンタ」も「拗ねる」も、何を意味しているのか、よく判らなかった。


 増田は真由美が帰った後、恐る恐るピアノのレ#を弾いてみる。問題無い。音が消えるまで待って、ピアノの蓋を閉じた。そして、スポットライトの明かりを消す。

 暑さ寒さも彼岸まで。だいぶ日が短くなって、この時間は涼しいくらいだ。これからはどんどん寒くなる。しかし、今までの暑い時期を考えると、それが不思議で堪らない。

「一雨来そうだな」

 増田はよろい戸のない出入り口のガラス越しに、どんよりとした空を見上げて呟いた。戸締りと火の元を確認すると、ドアに鍵を掛け、人も疎らな住宅街へ消えて行った。


 真由美は自宅前で、タクシーの運転手に料金を支払っていた。ワイパーを止めると、直ぐに前が見えなくなる程だ。家の玄関に飛び込むと、海外遠征から帰って来ていた響子に呼び止められる。

「ただいまー。あら、真由美さん、どうしたの?」

「ん? 何でもない」

 真由美が気兼ねなくSlowtimeに行けたのは、母が不在だったからだ。真由美はそれを隠しておきたかったので、話題を変える。

「お母さまお帰りなさい。コンサート如何でした?」

 玄関で迎えた側と、入って来た側の挨拶が逆になっていが、二人共、気にしてはいない。

「大盛況だったわよ。とても楽しかったわ。早く貴方も、もっと大きな舞台に立てるように、ならないとね」

 響子はご機嫌だった。お土産のワインを開けて、もう飲んでいる様だ。しかし、我が子の様子を見過ごす程、酔ってはいない。真由美の疲れた表情を見て心配になった響子は、真由美に話し掛ける。

「真由美さん、どうしたの? 何か悩みでも?」

 そう言われて真由美は、Slowtimeでピアノを弾いていることを正直に話そうとしたが、止めた。それでも母に、自分のピアノを聴いて貰いたかった。

「お母さま、ちょっと聴いて貰えないかしら」

「あら、珍しいわね。良いわよ。診て上げる」

 響子は微笑んだ。ワイングラスを二、三回ゆっくりと回し、そのままピアノ室へ向った。


 そんな二人の様子を、奥のリビングで博が聞いていた。今日空港まで妻の響子を迎えに行って、さっき帰って来た所だ。久し振りに家族全員が揃ったと思ったら、響子はピアノ室へ。今帰ってきた真由美は洗面所へ行ってしまった。

「またピアノか。始まると長いんだよなぁ」

 たまに早く帰って来たのにこれだ。博は呟いた。我が家のピアニスト人口比は、他の家より著しく高い。これは極一般的な家庭の倍以上だろう。数字に直すと判りやすい。


 それでも博は待つことにした。響子は高校の一つ下の後輩、友人の紹介で博が一目惚れした女性だった。その頃から響子は、将来プロのピアニストになると言っていたし、ピアノが弾けない博は、もうプロなのではないかと、思った程だった。

 結婚して暫くは子供に恵まれなかったが、若い二人は余り気にもしていなかった。それでも真由美が生まれると、響子は何処にそんな厳しさを持ち合わせていたのか、真由美にピアノを叩き込んだ。毎日毎日厳しく指導した。真由美はまだ平仮名が読めない内に、楽譜が読めたし、英語は読めなくても音楽記号なら判った。一方の博は、ただ真由美を可愛がった。

 何故か二十二年前の出来事が博の頭を巡る。響子も凄いと思っていたが、娘はその母親より六年も早くコンクールで優勝し、プロになった。妻子とも自慢出来る存在である。

 やがて奥のピアノ室からメロディーが流れてきた。

「始まったか」

 博は肩を竦め、手に持ったワイングラスを一人空中に差し出した。


 真由美は上着を脱ぎ、ぬるま湯で手を洗って、ピアノ室に向かう。響子は先にいつもの席に座って、ワインを回しながら待っている。真由美は上機嫌な母の前を通り過ぎ、ピアノの前に座った。何を弾くか迷ったが、試しに『エリーゼのために』を弾き始める。

「何エリーゼなんて弾いているの。ショパンになさい」

 いつもの声がピアノ室に響いた。真由美は直ぐに曲を変えた。やはり母には、自分の気持ちが理解出来ないのか。頼みの綱を失った気がした。指慣らしもせず弾き終わって、真由美は響子に向って座り直す。響子は、軽く頷くと評価する。

「いいんじゃない。調子は悪くないみたいね。ただ……」

 そう言うと、響子はワインの香りを楽しみ、一口飲んだ。

「ただ、何? お母さま」

 ドキッとして真由美は母を見た。少し酔っている様だったが、母の言葉を、期待の眼差して見た。

「少し弾き方変えたのね。いつものカチッとした弾き方から、そうね。あぁ、パチーンとした弾き方ね。力が付いて、腕太くなった?」

 響子はワインを左手に持ち替えると、右手を大きく振って笑った。そして席を立つと、笑いながらピアノ室を出た。響子が何も悪い所を言わないのは、上出来である証である。と、一人残った真由美は思った。それでも何故か、自分に自信がなかった。

「私は変わったのかしら」

 ふと思ってドの所に人差し指を置くと、そのまま押してみた。

「トーン」

 Slowtimeで増田が弾いた音がする。「えっ」と思った。もう一度弾いてみたが、やはり「トーン」という音が響いた。

「良かった。私にも出来た」

 出来てみれば、凄く簡単なことだった。それに、普段からそう演奏していたはずだったし、速い曲を弾く時はそうであったはずだ。急斜面を華麗に滑るスキーヤーが、緩斜面で初心者に教えている最中に、コケた様なものだ。意識して基本に立ち返れば、こんなこと最初からできていたことなのだ。


 真由美はその日の夜、久し振りに家族団らんというものを楽しんだ。そして、今までの悪い魔法から解放された様に、ゆっくりと眠った。


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