謎の調律師(九)
真由美は本屋さんに行って、斉藤が読んだという本を、探すことにした。店頭にある雑誌は、オリンピック特集ばかりである。ちょっと覗いて見たい気持ちもあるが、今、そんな暇はない。真由美は表紙だけを流し読みに見て、音楽コーナーに行く。
しかしそこに、それらしい本はなかった。
通りすがりの店員に、エリーゼの本と言って聞いてみたが、判る訳もなかった。真由美はイライラしながら三十分程うろうろしたが、判らないので本屋を出た。目の前でタクシーを拾うと、Slowtimeへ向かった。バスを十五分待つには、夏の太陽は暑過ぎる。
涼しいタクシーの中で真由美は考える。斉藤と自分は、何が違うのか。波形? 何を言っているの? 若い若いって言うけど、若いのはダメなの? 年が経てば判るの? 年が経って判るのなら、今判っても良いんじゃないの?
そんなことを考えていたら、Slowtimeを通り越していた。慌てて止まるように言うと、タクシーを降りて店に入る。
「いらっしゃーい」
昨日とは別人の様な、鼻に掛かる間の抜けた声で迎えられた。まるで初対面の客が来たかの様だ。真由美は、斉藤と一緒で、増田も記憶力が悪いのだろうか。そう思うことにする。
店内を見渡すと、昨日の夕方程客は居ない。それより何より、ピリピリとした殺気が感じられない。極普通の喫茶店だ。真由美は安堵した。真由美は真っ直ぐに、一番近いカウンター席へ、座ろうとした。
「おや、新田さんですか」
「こんにちは。昨日はありがとうございました」
真由美はやっと気が付いたと思う。昨日はかなり不機嫌そうだったが、増田がにこやかに挨拶をしたので、真由美は安心した。
「ピアノ弾きますか?」
注文の前に、意外にも増田から提案があった。確かに真由美は、ここへコーヒーを飲みに来た訳ではない。二日連続でケーキを食べていたら、太ってしまうのも明らかだ。
真由美が「はい」と答えると、増田は「どうぞ」と言ってカウンターを出る。真由美はその後に付いて行って、ピアノの前で待つ。
増田は方向を変え、ピアノの天板を少し開けると、そこで振り返った。増田が何か言おうとしている。
判っている。真由美は、エリーゼの本を探したことを報告をした。
「本屋さんに行ったんですけど、どの本だか判りませんでした」
息を吸った増田は話そうとしたことを先に言われたのか、言葉を詰まらせる。
「ほ、本屋さん行きましたか。そうですか。それはよございました」
そう言ったかと思うと、増田は歩き始めた。
「えーっと、その本はですね……」
そう言いながら真由美の前を通り過ぎ、ピアノの蓋を開けながら奥へ引っ込んだ。そして直ぐに戻ってくると、一冊の新書を持ってきた。増田はにっこりと微笑んだ。
「多分、これじゃないかと思いますよ」
それは『ベートーヴェン<不滅の恋人>の謎を解く』という本だった。増田はそれをパラパラと捲りながら概要を説明する。真由美はそれを聞いて、面白そうだと思った。だから、貸してくれることを期待したが、増田は悪戯っぽく本を真由美の方に見せると言った。
「買って下さいー」
買うけど、ちょっと見せて下さいよ! 真由美は本屋さんでイライラした時以上にイライラした。
「一枚の手紙について、ここまで調べるって、凄いですよね」
同意を求める様に言われても、真由美は答え様がない。増田は本を持って奥へ行くと、手ぶらで戻ってきた。
「じゃぁ、お客さんが帰らないようにお願いします」
にやっと増田が不敵な笑みを見せる。真由美はちょっとカチンと来た。
自分はプロなのだ。腕を振るって、一時間みっちり弾いた。弾き終わると席から拍手が沸き起こった。当たり前だ。
真由美は席を立って礼をしたが、アンコールには応えなかった。そして、気分良くコツコツと足音を響かせてカウンター席に来ると、カウンターの中にいた増田に「どうだ」と言わんばかりの顔をする。増田は顔の前で拍手をして、素直に喜んだ。
「これはお礼です」
そう言って増田は、水とアイスコーヒーと、ケーキを置いた。
「昨日の残りですか?」
真由美は少し意地悪っぽく聞く。プロの報酬としては格段に安い。それでも真由美は、せめて批評は聞けるのではと期待する。
「ケーキは違いますよ」
増田は笑いながら、テーブル席を片付けに行く。真由美はとりあえず、水から飲むことにした。増田は直ぐに戻って来て、コーヒーカップを洗いながら、真由美に話しかける。それはまた、意外な提案だった。
「うちで、アルバイトしませんか?」
「えっ? 皿洗いのですか?」
その提案に、真由美は驚いて、咄嗟に聞き返した。すると増田は一瞬手を止め、大きく頷いた。
「あぁ、それも良いですねぇー。掃除とかもして貰えると、助かりまーす」
真由美は少し考えた。そして聞き返す。
「そうすると、ピアノを教えて頂けるのですか?」
「いえ、それは関係ありません」
増田はスッパリと言う。自分は人に教えるほど上手くはない。
「貴方は技術的に完成していますので、私が教えられることはありません。貴方に足りないのは……」
皿を洗いながら増田は困った顔をした。
「遠慮なくおっしゃって下さい」
真由美は話の続きを聞きたかった。増田は口をモゴモゴさせる。
「何というか、いや、言葉が見つからないんですよね。私は他のピアニストの方と、あまり話をしたことがないので、どうもボキャブラリーが足りないのですが……」
増田は人に、ピアノを教えたことはなかった。だから真由美のピアノを、言葉でどう表現して良いか、迷っていた。
「貴方のピアノは機械的なんです。いや、気分悪くしたらごめんなさいね。凄い。それは判ります。私には、真似の出来ない領域の技術です。でも何か、機械的。そんな感じです」
言葉を選んだ様だが、真由美にはショックだった。確かに母響子の教えはそんな感じだった。しかしそれが、プロとしての基本技術であったに違いない。認めよう。
「機械的ですか。そうかもしれません。でも、それは基本的なことと受け止めましょう」
「そうですね。凄い基本。超基本。もはや基本を超越した、物凄い何か。正確無比で精密機械の様と言いましょうか」
真由美の言葉に、増田は救われた気がして笑いを浮かべた。真由美も笑った。
「少しランクが上がりましたね」
真由美は右手を上に突き上げて笑った。それを見て増田も右手を上に上げて笑った。増田は再び手元を見てコーヒーカップの水を切ると、再び真由美の方を見て聞いて来る。
「そうだ、昨日、打鍵の練習をしましたか?」
「はい。家で叩いてみましたが、私にはよく判りませんでした」
「そうですか。ではちょっとこちらへ」
増田はエプロンで手を拭き、真由美を手招きして、ピアノの所へやってきた。そして今度は、自分がピアノの所に座った。
もう客は居なくなっていた。
「昨日貴方は彼女にビンタしたので、今日はヘソを曲げています」
増田が鍵盤を撫でながらそう言うので、真由美は変なことを言うと思って言い返す。
「彼女? 貴方のですか?」
「私のではありませんよ」
じゃぁ誰のだ。それは聞かなかったが、変な答えに真由美は笑った。増田は笑っていなかった。さらりと答えて鍵盤の方を見ている。そして昨日と同じく、ドの音を弾いた。「トーン」という音が響いた。しかし、今日は真由美と替わろうとせず、店内から共鳴する音が消えるのを待った。
「貴方の弾く音はこうです」
そう言って、ドの音を叩いた。「トーン」という音がした。真由美には違いが判らない。増田は話を続ける。
「貴方の音は弦を叩いている音です。物理的に叩いている。この鍵盤を叩けば、音が出ると思っているかもしれませんが、それでは誰が弾いても同じです。そう思っていませんか?」
「はい。そうですね」
真由美は言われるがままに答えた。
「でも、斉藤と同じピアノを弾いて、同じ音が出なかったのですよね」
それもまた事実。真由美は頷いてから口を開く。
「はい。そうです。ですから、その弾き方を知りたかったんです」
「何か矛盾する話ですよね。ところで話は変わりますが、同じ弦を使うという点で、バイオリンの上手い下手って、何処にあると思いますか?」
増田は答えをはぐらかしているのか、バイオリンの話にすり替える。真由美は困惑した。バイオリンの良い音は弦を直角にする。いや、それは当然として、その先にあるものに違いない。
「バイオリンを弾いたことはないので……」
答えを濁らせたが、真由美には正しく回答する自信がないだけだった。しかし増田は、真由美には難しい質問なのだと考えた。だから答え易い様に、質問を変える。
「同じ楽器をプロと素人が弾いて、同じ音が出ると思いますか?」
「それが違うのは判ります」
その答えに増田は頷いた。そして話を続ける。
「そうですよね。私もバイオリンは弾けないので理屈は判りませんが、弦の角度、強さ、速度等で音質が変化するとは思いませんか?」
増田はバイオリンを弾く真似をして話をした。
「はい。そうですね。変わると思います。そこにこそ、プロの技術があるのだと思います」
「だとしたら、ピアノはどうでしょう?」
頷いて増田は直ぐにピアノに質問を戻した。増田は少し踏み込んだ答えを期待する。
「ピアノは鍵盤を叩くと、ハンマーが代わりに弦を叩くので、誰が弾いても、同じ音になると思います」
そっと弾けば小さい音、強く弾けば大きな音がするのは当たり前。同じ強さで弾けば、同じ音のはずだ。と真由美は言いたかった。
しかし真由美の答えは、増田には意味が正しく通じていなかった。それでもその答えは、増田が期待したものではなくても、ある意味期待通りであったとも言える。増田はもう一度質問した。
「いえいえ、貴方は今それが違うと気が付いたのではないですか?」
「そうなんですけど……ピアノの弾き方の違い? 鍵盤を叩く強さのことですか?」
「ちょっと違います。昨日も弾いて頂いた通り、強く弾いても弱く弾いても、貴方の音質は一緒です」
真由美は意味が通じるように、言い直したつもりだった。しかしそれでも増田から正解とは言われなかった。
増田はドに人差し指をそっと置く。そして、鍵盤を押すと「トーン」という大きな音が響いた。にっこり笑って真由美の方を見る。
「どうぞ、弾いてみてください」
真由美は増田と入れ替わって椅子に座ると、ドの音を叩いた。「トーン」という音が鳴った。
「あ、違います。上から叩くのではなく、鍵盤に指を触れた状態で弾いてください」
その指示に、真由美は増田の方を見ると「ほにゃ?」っとした顔をした。言われるままドの所に指を置くと、鍵盤を押した。「ド」という鈍い音がした。
「それが貴方の音なんです」
増田にすかさず言われて、真由美は、うっかりしたと思った。力が足りなかったのだろう。それか、増田の弾き方をよく見ていなかったのか。もう一度ドを押した。
「ド」
さっきより大きな音がしたが、それでも三十センチ上から叩いたような音ではなかった。
「鳴りません。どういうことなんですか? こんな指を着けた状態で、大きな音は出ません」
「そんなことはありませんよ」
増田は真由美と入れ替わると、もう一度ドの所に人差し指を置くと「トーン」と弾いた。そして真由美の方を見ると、「ねっ」と微笑んだ。そのまま増田は、鍵盤を半分ほどそっと押した。音はまだ出ない。するとそこで、人差し指に力を入れる。
「トーン」
鍵盤の上に指を置いた状態で押すのが『距離ゼロ』であるとするならば、今のはマイナスだった。しかし、三十センチ上から振り下ろした様な音がする。
「まずは、こういう音を出してください。話はそれからです」
増田はもう一度真由美に微笑んだ。真由美にとって、今まで教わったことのない弾き方だった。
引用
青木 やよひ『ベートーヴェン<不滅の恋人>の謎を解く』(講談社現代新書)




